2016年 03月 01日
倭文氏と下照姫 倭文神社(2)
倭文氏の祖である建葉槌命(天羽槌雄神)は、下照姫とどんな関係があるのか?
全国の倭文神社をインターネットで調べてみるが、倭文神社で必ずしも下照姫を祀っていないようである。
そうかと思うと、奈良県の葛城市のホームページに以下の記載がある。→葛城市役所 棚機神社
“5世紀頃、葛城山麓の(北端に位置する當麻町)周辺では葛城氏(葛城地方を本拠として四世紀
末~五世紀に活躍した古代豪族)を中心とする有力豪族が存在し、その中には、染色技術を生業
とする置始(おきそめ)氏や、機織技術に富んだ倭文氏などの伴造(とものみやつこ)(大和政権
に職能奉仕をした技術者集団の長)がおり、中国南朝や朝鮮半島(百済・新羅)などから我が国にい
ままで伝来していなかった機台付の機(タナバタとは棚のある機、機台に組み立てられた立体的
な機のこと)やそれを織る織女、オトタナバタの説話や七夕儀礼(中国では機織り技術の向上を
願う儀式)が三者一体となってもたらされました。
これを置始氏や、倭文氏が最初に受容していたので、七夕儀礼を天羽槌雄神(あめのはづちの
おのかみ)(機織の術を教え授けられた神)やシタテルヒメ(渡来系の機織り集団に奉斎された
女神)を祭神とする、本来の鎮座地である(當麻町)葛城市太田で、日本最初の棚機の儀式が行
われていたと考えられます。”
新撰姓氏録(815)によると
「大和国神別(天神) 委文宿祢 出自神魂命之後大味宿祢也」
「摂津国神別 (天神) 委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」
という記述も見られる。委文も倭文も同じ意味らしい。
倭文氏は、カミムスビ系の氏族のようである。同じカミムスビ系の氏族として、県犬養連・瓜工連・
多米連・間人連・紀直・額田部連等が見られる。タカムスビ系とどう違うのか、今のところ知識がな
くてわからないが、系譜とは大半父系でつながっているので、もしや母族だとか関係しているのか
しら。
この新撰姓氏録と符合しているように洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、
神魂命─角凝魂命─伊佐布魂命─天底立命─天背男命─天日鷲命という
ような系譜となっている。
そして、その後が天羽雷雄命とつながるようである。(この天背男という名は、星神の天香香背男に名
前が似ている!?)
さて、鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』(講談社学術文庫)を読んでいたら、天平11年(739年)
「出雲国大税賑給歴名帳」(いずものくにたいぜいしんごうれきめいちょう)が載っており、そ
の当時の出雲郡と神門郡の二部の扶養を要する高年の者や年少者の属す戸主の姓氏が記述され
ていた。
下照姫とされる(神社や風土記にその記載はないが)阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祀っている
多伎神社のある神門郡多伎郷であるが、40名記載のうち倭文部臣族二戸、倭文部一戸の名が
見える。
倭文部の名が見えるのは、神門郡滑狭郷の二戸と、多伎郷にしか見えない。
多伎神社 島根県出雲市多伎町多岐字笠無639
それと、多伎郷には、伊福部十戸もある。伊福部も神門郡滑狭郷二戸、出雲郡漆沼郷一戸以外
には他の郷には見られない。伊福部は、鳥取県東部―因幡の国に勢力を持っていた豪族である。
このことを考えて思ったことだが、元々は阿陀加夜努志多伎吉比賣命=多岐津姫(宗像)だった
ものが、因幡から伯耆以東に基盤を持っていた下照姫に祭神がすり替わって、阿陀加夜努志多伎
吉比賣命=大国主命の御子(下照姫)になってしまったのではないか。
(富家伝承による阿陀加夜努志多伎吉比賣命=多岐津姫、八上姫の娘神=下照姫という前提の
考えに基づく)
倭文神社 夫婦岩
鳥取県東伯郡 湯梨浜町大字宮内754
さて、話は戻るが、建葉槌命は下照姫とどういう関係があるのか。機織りの神というのだから、たぶん
秦族だと思われる。(ちなみに倭文氏の祖 角凝魂命は、大阪府阪南市石田の波太神社に祀られて
いる。)下照姫と結婚したと仮定するならば、建葉槌命=天若彦ではないか。
多久神社 島根県出雲市多久町274
天御梶姫命 多伎都彦命 を祀っている。
出雲族と同族化平和路線に走ったために、徐福(饒速日)に誅されてしまったのではないだろうか?
古事記で下照姫の兄とされる味鋤高彦命であるが、后の名は、天御梶姫であり、「天の」というだか
ら、天津神であり、この姫も同じ秦族であったのではないだろうか?
この神の系譜もまた出雲族と同族化して、誅されるにいたったのではないだろうか?