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■ 物部神社からどこを通って出雲へ 


富家伝承本によれば、物部・豊連合軍は、物部神社を本陣として、小田を通り、神門水海の東岸で、

真幸が丘公園北方の多聞院辺りにあった西出雲の王宮を攻めていったそうです。

しかし、陸路で行ったのか海路で行ったのか何も記述がありませんので、様々な神社の祭神や、(旧)

市町村誌を調べて、自分なりに推理してみたいと思います。

推理というのは偉そうで、想像といったほうがいいのかもしれません。


(旧)市町村誌や神社の由緒をいろいろと調べて見ましたが、

物部・豊軍が、西出雲の王都を攻め滅ぼしたような伝承は一切発見できませんでした。

それは、記紀が「国譲り」で、出雲の方が自主的に国を譲ったということが書かれているわけですか

ら、それに反するような話は、許されず、まあ書かれていなくて当然と思われます。


しかし、司馬遼太郎氏が、物部氏が出雲大社の「兵器庫」の鍵を管理していたという話は、『簸川郡

誌』(1940年)という書物に書かれていました。


物部神社を本陣として出立して、どの道を通ったのだろうか?

大田市から出雲市までというのは、仙山峠などあり、なかなか険しい道です。一番たやすいのが、海

岸へ出て、船で出雲平野を目指す道です。

そうなると、大田市の波根港だろうか。波根港には、立神岩、立神島なる景勝地があります。

立神(たてがみ)は、海の遥かかなたから神霊が依りくる意味らしいのですが、

逆に神が出立したところではないのかしらなどと、想像してみました。まあ、そういう伝承もありま

せん。


しかし、出雲と石見という行政区は、かなり後代のことなので、石見と云っても出雲勢力の中を堂々

と行くのはかなり危険な道、物部神社がかなり大田市の南方なので、山間の谷川の険しい道をたどっ

て、田儀港まで出て、船に乗ったとも思えます。

田儀には、「手引ヶ浦」の伝承があります。もしや、物部氏の手引き?と思いきや、多伎芸神社の祭

神、大国主命の娘ー阿陀加夜怒志多伎吉比売命の伝説です。以下『田儀村史』(昭和36年、多伎村

役場発行)からの要約です。

  

  姫が、ある朝、父の杵築の宮に行こうとすると、海神が出立を惜しんで、津波を起こし引きとめ

  ようとしました。姫は、「私は今父君のおめしをうけて杵築の宮にまいろうとここまで来たので

  ある。早く波をしずめ潮をひかせて道を開かせたまえ」と言って浜辺を通ろうとされると、大波

  がピッタリ止んでしまい美しい白浜にかえりました。それで、お供の者たちの手を引いて真一文

  字に稲佐の浜にお急ぎになりました。そのいわれで、手引き浦というようになったそうです。


■ 小田神社


さて、なぜ海路からか、出雲へと私が思ったのかですが、田儀からまた東に行った所に、小田神社

という古社がありまして、元々は、社は海の中の鸕鵜島(うのしま)に鎮座していたという話から

です。なぜに、神社が会場の小島に? なにかのメモリアルとしか思えません。


小田海岸

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ここの神社の祭神は、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。
配祀神は、豊玉姫命、鵜葺草葺不合命、玉依姫命で、日向神話の祭神たちです。
富家伝承によれば、彦火々出見尊は、饒速日命と市杵嶋姫命の御子です。

改めて、日本書紀を確認しました。
ニニギノミコトー彦火火出見尊(またの名火遠理命、山幸)ーウガヤフキアエズノミコトー神武天
皇という系譜ですが、神武天皇の別名、「彦火火出見尊」とも書かれていて、混乱する記述となっ
います。

小田神社 拝殿と本殿 
島根県出雲市多伎町小田503


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■ 差海から神西湖ー神門水海へ

そして、海で西進し、湖陵町差海辺りにかけて上陸したのではないか…と。
湖陵町の差海川を上って行くと、現在の神西湖(出雲風土記時代の「神門水海」)につながります。
ここの差海に鎮座する神社の祭神は、建御雷神、経津主神で、社伝によれば、国譲りに際して、「
須々美降リ玉ヒシ地ナルヲ以テ須々牟トイフベキヲ、後世佐志牟ト云へルナリ」ということです。

当地に上陸し、「須々美」(すすみ)が「須々牟」(すすむ)となり、「佐志武」(さしむ)とな
ったらしい。出雲地方の神社名は、「ほとんど意味不明」なので、こういう現代語の転訛で説明さ
れるとなんか違う気がします。また、この神社名の「佐志武」から地名の「差海」(さしうみ)に
なったそうです。

佐志武神社 
島根県出雲市湖陵町差海891

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佐志武神社 本殿と拝殿

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この差海から対岸の方向から(東北方向)から写した現在の「神西湖」(じんざいこ)の姿です。
神西湖は、古代の「神門水海」(かんどのみずうみ)の名残りです。
弥生時代には、斐伊川は宍道湖ではなく神門水海を流れていました。

出雲大社の前は、今のような広い平野ではなく、神門水海という大きな湖があったようです。
 
神門水海の名残 神西湖 

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差海からいったん上陸し、また船で知井宮の真幸ヶ丘(旧 山崎ヶ丘)の裏手に回ったのではない
のだろうか。そこから、智聞院遺跡の辺りにあったとされる西出雲の王宮に侵入したのではないか
しら。まあ、想像の域を超えることはありません。

弥生時代の神門水海
「神西湖親水公園」の看板に、私が黒字の地名を加工したものです。 


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その後どうなったかについては、過去記事へ。→神門臣の拠点はどこだったか? (4)西出雲王国滅亡の時

真幸ヶ丘から見える古志の街並み

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真幸ヶ丘に鎮座する智伊神社

元々は、神宮寺の智聞院にあったという。
富家伝承本によれば、宇佐家の菟上王が建てた神の宮とは、出雲大社ではなく、出雲王宮跡に建てた智伊神社だそうで
ある。


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# by yuugurekaka | 2017-01-28 20:41 | 出雲王朝の崩壊

雪が降りました。

昨日まで降っていた雪が、ようやく止みました。
昨日は、人様の家の雪かきで体がぐったり、今朝は腰が痛くなって歩けないのではないか…と
少し心配しましたが、ちょこっと痛いだけで、歩くのに支障はありませんでした。

自分の家はどうかというと、
車の上に40センチぐらいの雪が積もっておりまして、
車も出せる状態ではないです。(やっと、今日 家の前の雪かきができました。)
だから、職場まで5キロぐらいあるのですが、歩いて行ったのです。
車で行けない程、積もっているわけではないですが
他の車のトラブルに巻き込まれたりするのが、まあわずらわしい。

1時間早くでればなんとかなる
すべったり、車が進まなかったり、そういう不確定要素が、最近は嫌のようです。
運転も不安ですが、体も不安です。

変形性膝関節症、頚椎症…と、ことあるごとの病院での診断に、がっくりときます。
それに今年は、また内視鏡の検査に行かないといけない年…。
60を前にして、だんだんと自分の体に用心深くなっています。

手嶌葵 - 明日への手紙


最近のお気に入り動画です。
ドラマの主題歌だそうですが、ドラマは見ていません。
手嶌葵さんの声が最近好きになって(ジブリの映画のファンではないです。)
CDを借りて、車の中や家で一緒に歌っています。
前向きな歌詞ですが、なんか、はかない気持になります。
この動画に出てくる、女の子がお人形さんと一緒に食べるシーンが寂しそうですが
(熊さんの人形だとずっと思っていましたが、よく見るとネズミさんであることがわかって、び
 っくりしまして、恥ずかしくなりました。)
自分の今の生活となんら変わらない気がします。

※このミュージックビデオは、ドラマの1シーンではなくて、ミュージックビデオのために作られ
 たものらしいです。
 

はて?なんでこんな人物がこういうブログを書いているのかですが、
もう十年も前になりますか、鳥取県の大学病院に2か月入院していて
退院後も、1か月おき2か月おきで通うことになりました。
そうしていると、鳥取県には、大国主命の再生神話の伝承地が多いということを発見しまして
行ってみたくなりました。

それを日常生活のブログの中の一つのコンテンツとしていました。
難病のブログでしたが、治ってしまったので、もう場違いな気がしまして、
今のブログのコンテンツだけ残しました。

昔はたんなる神社訪問記だったのです。
しかし、自分がなんで書いているのか、自分でも疑問になってきました。
だが書き続けているうちに、
自分の心のうちの一つの棘かなーと思うようになりました。
死ぬまで抜いておこうと。
だから、あんまり神様の「ありがたい話」はありません。

戦前、戦後のどちらも歴史に対して、自分には不信感があります。
大国主命も事代命も神話でしか過ぎず、
出雲王朝など、ヤマト王権を高めるためにつくられた大ウソである
云われてきた歴史です。


# by yuugurekaka | 2017-01-25 22:38 | 日記

■物部の祖神を祀る神社


物部神社 島根県大田市川合町川合1545

※ 最近の画像ではありません。


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久しぶりに司馬遼太郎の『生きている出雲王朝』(『歴史の中の日本』所蔵 中公文庫)をあけて

見ました。(ここに、司馬遼太郎氏の出雲王家の末裔である産経新聞社時代の同僚W氏のことも書

かれているのですが、富家伝承本とはかなり違ったことが書かれてことに改めて気づきました。)

それはさておき、物部神社のくだりに。


“この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられた

 のではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前期の天穂日命など

 のころよりずっとくだり、崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物

 部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫の

 カギをここで預かっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来たものがあり、物議をかもしたこ

 ともあったという。”             (司馬遼太郎著『歴史の中の日本』中公文庫)


司馬遼太郎氏の云うところは、日本書紀の崇神天皇時代における出雲神宝問題に関わる出雲振根討

伐の話から発想されたものだと思います。そのときは、物部武諸隅が登場します。その次の垂仁天

皇には神宝検校役として、物部十千根が出てきます。

また石見国造は、景行天皇より、物部竹子連が石見国造として命ぜられて以降、物部氏が国造家だ

ったようです。


出雲国の監視のための軍事施設という説ですが、この物部神社は、出雲の国よりかなり離れていま

す。出雲の国の境には、多伎町田儀から、仙山峠という長い峠があり、朝山を越えて、大田市内か

ら三瓶山に向かったところにあります。出雲を攻め込むための軍事基地というならわかりますが、

監視目的だとちょっと場所が遠い気がします。


物部神社拝殿

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■祭神 ウマシマジ命

ここの祭神は、饒速日命と長髄彦の妹である三炊屋媛の間の御子とされるウマシマジ命(『日本書
紀』表記では、「可美真手命」、『古事記』表記では「宇摩志麻遅命」)ですが、社伝によれば、
天香具山命と共に物部の兵をひきいて尾張・美濃・越国を平定した後、播磨・丹波を経て石見国に
入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の賊を平定し、ここの八百山の麓に宮居を築き、この地で没し
たといいます。また、異母兄の天香具山命は新潟県の彌彦神社に鎮座したとのことです。


ウマシマジ命は、鶴に乗って石見国の鶴降山(つるぶさん)に降臨したとの伝承がある。

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この饒速日命の子…というのが、大きく時代考証を混乱させます。
彦火明命ー天香具山命ー天村雲命の海部・尾張氏の系譜を記紀は消し去り、神武東征(物部氏)の
話を挿入するわけですが、実に二度の「はつくにしらすすめらみこと」が物部氏で、それよりも前
もやっぱり物部氏だった…という話の落ちです。

大国主命や事代主命と同時代の人物を登場させることにより、「国譲り神話」をすべて疑わせるよ
うな展開です。ウマシマジ命が饒速日命の時代に出雲を平定するならば、そもそも国譲りなどする
必然性もないのです。

富家伝承によれば、長髄彦は、第八代孝元天皇の御子ー大彦命(父族祖天香具山命や母族祖ー事
命)であり、物部氏の東征に抗して、最後まで闘ったけれど、琵琶湖の東岸に逃れ、最終的に
北陸に移住したという。その子孫には、後に若狭(福井県)国造になった膳臣(高橋氏)や、高
国造になった道公家があるとのことです。なお、記紀では、大彦命(おおびこのみこと)は崇神
天皇の派遣した四道将軍として名前が出ています。

となれば、葛城王朝の末期の後代の話であり、葛城王朝もろとも出雲の王朝も崩壊させられたとい
うことでしょう。
どこの経路を通って、西出雲の王都を攻め入ったのでしょうか。

# by yuugurekaka | 2017-01-18 19:47 | 出雲王朝の崩壊

稲佐の浜(いなさのはま) もしや奈良時代の話?


出雲大社より西へ1キロ行った所にある稲佐の浜です。ここが「国譲り神話」の舞台となっており、

大国主命に経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神の二神が、「国譲り」を迫ったと云われてい

る浜です。また経津主命は、物部氏の神で、甕槌神は中臣氏(藤原氏)の祭神であると云われて

います。


稲佐の浜 島根県出雲市 大社町杵築北稲佐


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しかし、同じ記紀に、天照大神のかなり後の子孫が東征をして、大和入りし、事代主命の娘や子孫

母族として、ヤマト王権を造るという大きく矛盾した話を載せていることを考えると、この国譲

り神話は、いったい何を意味しているのでしょうか。


史実ではないことはもちろんですが、記紀が書かれた時代のことを考えると、これは弥生時代の話

はなくて、もしや持統天皇の時代のことを言っているのではないかという思いが浮かびました。


よく言われることですが、天照大神のモデルは、天武天皇の後を継いだ女帝、持統天皇だとされて

ます。和風諡号の一つに「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)とあ

ります。→ウィキペディア 持統天皇


そうして考えていきますと、この「国譲り」を迫る経津主命のモデルは、石上麻呂(物部麻呂)で、

甕槌神のモデルは、藤原不比となります。

この二人、元明天皇の時代には、左大臣、右大臣を任じられています。


しかし、物部氏や中臣氏は、共に壬申の乱で天智天皇の太子・大友皇子側の忠臣です。壬申の乱で、

敗北した側ですので、本来は没落していっても不思議はありません。

天武天皇の側には、いわゆる出雲系豪族というか、葛城王朝系豪族の尾張氏、三輪氏、鴨氏などが、

(三輪君高市麻呂、尾張宿禰大隈、鴨蝦夷…)ついています。


しかるに、天武天皇の死後、大津皇子が謀反の疑いをかけられ自害させられるなど、謀略めいた事件

もあり、結局のところ、天智天皇の系統が、持統―文武ー元明…と続くのです。あの壬申の乱は一

体全体なんだったのでしょうか。

そして、物部氏や中臣氏は、没落するどころか、持統天皇、元明天皇に仕え、出世しています。「国

譲り神話」とは、天武天皇ー葛城王族達から、朝廷を奪い返したという隠喩なのかなあ…と。

さて空想は、このぐらいにしておきます。

 

薗の長浜 大社町の「稲佐の浜」から出雲市長浜にかけての砂丘

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一説によれば、「稲佐の浜」を、古くは、出雲大社前の浜だけではなく、はるか西方の田儀浦まで

を言ったようです。

物部・豊連合軍(物部氏+宇佐氏)は、杵築の浜では無く、もっと西の浜から上陸したのではない

だろうか。



# by yuugurekaka | 2017-01-16 16:56 | 出雲王朝の崩壊

大和三山と 阿菩大神

■阿菩大神と播磨風土記 


西出雲の王墓群で有名な西谷墳墓群を斐伊川をはさんで、向こう岸の少し南に行った所に、播磨風土

記に出てくる阿菩(あぼ)大神を祀った伊佐賀神社があります。江戸時代は「伊保神社」と云われて

います。下の地図で伊保とある地名の所の神社です。

あれれ、対岸の船津町の下に、漢字は違いますが、九州の豊国の始祖、菟名手と同じ名前の地名が見

ますね。


国土地理院地図より

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現在の神社名は、伊佐賀神社ですが、『出雲国風土記』(733年)では、「加佐伽社」の比定されてい

ます。しかし、延喜式神名帳(927年)では、伊佐賀神社としての名前があります。

神社名自体がなぜ変わったのか、よくわかりませんが、出雲国造家第3世に「伊佐我」の名前もあり

す。


伊佐賀神社 島根県出雲市斐川町出西544
※ 最近写した画像ではありません

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伊佐賀神社の石段
かなり急な石段で、降りる時てすりをもっても不安でした。

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ここの神社の説明板によると、「揖保ふりきりの神」から「いぼふり神」となり、「伊菩→伊保大神」

となったと書かれていました。


私は、耳にしたことはありませんが、谷川健一著『列島縦断地名逍遥』(冨山インターナショナル発

行)によれば、出雲方言で、不服を言う事、不満に思い立腹して立ち去ることを“いぼをふる”と

うらしい。


さて、播磨風土記では、どのように書かれているのでしょうか。

〝播磨風土記 揖保の郡 上岡の里

出雲の国の阿菩大神が大倭の国の畝火・香簗・耳梨の三山が闘い合っているとお聞きになった。そこで
諫め止めようと思われて、上がって来られた時、ここに到って、闘いが止んだとお聞きになって、その
乗っていた船を覆せて鎮座した。だから、神阜と名づけた。丘の形は、船が覆ったのに似ている。〟
     (中村啓信 監修・訳注  橋本雅之 現代語訳 『風土記 上』  角川ソフィア文庫)

ここの話から思うに、
ヤマト王権の豪族の争い(山の争いは豪族の争いではなかろうか)に、出雲の王が出向いて、仲裁
だけの力があったのだろうということです。
富家伝承本によると、倭国大乱の時代、出雲族が治めていた播磨国は、アメノヒボコ族に取られ、そ
後、孝霊天皇・吉備津彦がアメノヒボコ族を攻め入って、出雲まで攻められたことになっているの
で、出雲美作道を通って仲裁に行けたのは、かなり、初期の時代のことだと思います。

揖保の地名が、阿菩大神の名前から来ているかと思いきや、葦原志許乎(大国主命)とアメノヒボコ
の逸話から、米粒の落ちた「粒丘(いひぼおか)」から「いぼ」が来ているのだそうな。
でも、阿菩(あぼ)から揖保(いぼ)になったことも考えられるし、もともと、いぼおおかみであり、
付けで揖保→阿菩の可能性もあるのではないかしら。そもそも弥生時代の話を奈良時代の書物で判
断すること自体に無理があるように思います。


■ 中大兄皇子 大和三山の歌

さて、この播磨風土記に出てくる大和三山の争い事と、その調停をしようと出雲からやってくる阿菩
大神の話は、有名な万葉集の中大兄皇子(なかつおほえのみこ)〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕
の三山(みやま)の歌にも出てきます。

一説には、天智天皇と天武天皇が、額田王との三角関係を歌ったものだと云われています。さて、ど
うなのでしょう。

大和三山の詳細については→ ウィキペディア 大和三山

藤原京から見る 天香久山(あまのかぐやま) 標高は152.4メートル
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〝巻1-13
 香具(かぐ)山は畝傍(うねび)を男々(おお)しと 耳梨と相諍(あらそ)ひき。
    神代よりかくなるらし。古(いにしへ)も然(しか)なれこそ、うつそみも、妻を争ふらしき 
 
 昔女山なる香具山が、同じ女山なる耳梨山と、畝傍山を男らしい山だ、と奪い合いをしたというが、
 恋の道にかけては、神代からそうだったのに違いない。(その後、人の世になって、幾千年経ってい
 るが)昔の神々も、そうであった所からして、肉身の人間も、配逑(つれあい)を取りあいするのに
 違いない。(この御製をもって、額田ノ女王を争われた、自己弁護の如く解する古来の学者の考えは、
 おそらくは誤解で、天皇にはそうしたお考えもなく、ただ三山の妻争いの伝説から、一般社会のこと
 を述べられたものと見るがよかろう。)
                    (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)
 
 
 藤原京から見る耳成山(みみなしやま) 標高は139.6メートル

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〝巻1-14
 香具山と耳梨山(みみなしやま)と争(あ)ひし時、
                       立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)

 香具山と耳梨山とが、夫(つま)争いに対抗しておった時分に、それをわけるために、わざわざ、
 雲から阿菩ノ大神が出て来られたという、ここがその印南の平原である。〟              
                     (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)


藤原京から見る畝傍山(うねびやま) 標高は198.49メートル

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私が、藤原京を訪れたときは、藤原京の中にあるグラウンドで、少年野球大会が開催されておりまし
た。それと、コスモスの撮影会なるものも催されていました。
私は、持統天皇時代の都を想像しつつ、大和三山の争いはいったい何を意味しているのかを考えなが
ら、ゆっくりと歩きまわりました。
以下 単なる私の想像です。

中大兄皇子の時代の神代とは、おそらく、葛城王朝の初期段階の話であったろう。
天香久山は、尾張氏の先祖である天香具山命の名の山でもあり。持統天皇は女帝ではあるが、男の天
皇が初期は多いので、たぶん男山であろう。そうなると、あの耳成山は、どこかの王家を指すので
ないか。
畝傍山だが、大和の出雲族ー磯城登美一族は、もとは、三輪山の前ではなくて畝傍山の背後の葛城山
方面にいたそうなので、磯城登美一族のお姫様をめぐっての争いだったのではないか。


■ 拝殿の前の丸石 

さて、話は伊佐賀神社にもどります。

伊佐賀神社拝殿前の丸石

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拝殿の前に丸石が置かれておりました。ちっちゃな狛犬が丸石を守るように相対しています。
西谷3号墓の「石主」を思い出しました。
案外、ここの神社も古墳の上に神社があるのではないかななどと想像しました。
阿菩大神の霊魂の依代なのかも。


西谷3号墓の石主

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〝第4主体の土器を取り除いていくと、玉砂利が出てきました。さらに掘り下げると、窪みの底から、
水銀朱で赤く塗られた円礫が出土しました。ちょうど遺体の上半身の真上あたりでした。〟
〝これらは、霊が憑依した依代、つまり「石主」だったと考えられます。〟
                         (出雲弥生の森博物館の展示説明板より抜粋)

玉(たま)は、魂(たましい)なんですね。
※西谷三号墓は弥生時代の終わりごろに造られた東西40m、南北30mの大形の四隅突出型墳丘墓
す。


■ 阿菩大神は何代目オオナムチか?

神社の説明板には、「御系統は不詳であるが・古史成文古史系図には焼太刀守大穂日子命として記載
されている。」とあります。この「古史成文」「古史系図」とは、平田篤胤の著書のようです。平田
篤胤 古史系図(1815年)で確認してみた所、「焼太刀守大穂日子命(やきたちひもりおほほびこの
みこと) 出雲国阿菩大神是呼」とあり、鹽冶毘古命(やむやびこ)の御子と記載してありました。
延喜式神名帳(927年)でも、出雲国神門郡に鹽冶日子命御子燒大刀天穗日子命神社とあります。

伊保神社(伊佐賀神社)略記 

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富家伝承本、の系図によれば、味鋤高彦御梶姫(アメノミカジヒメ)の御子である塩冶彦の御子に、
「速甕之建沢谷地乃身」の名前があります。

斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)からの系図抜粋

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この「速甕之建沢谷地乃身」が、「焼太刀守大穂日子命」と同じかわかりませんが、この神は大国
主命から数えて、4代目で、オオナムチ11代目です。その頃はいまだヤマト王権にも、力があった
ように思えます。
となれば、大国主命の「国譲り神話」とは、矛盾したものとなります。

# by yuugurekaka | 2017-01-07 15:27 | 出雲と大和

■ 竹取物語


月読命や豊受大神は、記紀において、ほとんど事績が述べられていません。それはおそらく、

記紀が編纂された時代には、大和中央に「月読命」や「豊受大神」を祀る豪族が、力もってい

なかったのではないかと思います。しかし、月読命」は、イザナギの生んだ三神のつでもあ

り、「豊受大神」は籠神社の奥の宮(元宮)であったことを考えると出雲族と同様に最も古い一

族であったと類推できます。

 

さて、月を考えてみると、かぐや姫の「竹取物語」が浮かんでまいります。

九世紀後半から十世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初の物語の一つであ

と言われています。月から来たかぐや姫に5人の貴公子がでてきますが、天武天皇・持統天皇

仕えた実在の3人が実名で(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)登場し、後の二人、庫持皇子

藤原不比等を、石作皇子は多治比嶋(丹比真人島)をモデルにしたと云われています。

詳しくは  ウィキペディア  竹取物語


記紀編纂時の重臣を揶揄しているので、記紀をねつ造し、月読命の事績をほとんど消してしまっ

た皮肉の書ではないかという話も、一つの説としてあるようです。

石上麻呂は、物部氏の末裔で、右大臣・左大臣を勤めました。


物部系の天皇の事績の周辺には、月読命を奉祭する菟狭(宇佐氏)族であろう名前が、ちらりち

らりと見えるものの、何も語っていません。神代の主軸は、アマテラスとスサノオばかりです。

アマテラスが皇祖神として定着する過程で、月読命の重要度が下がったのかもしれませんが、

申の乱が大きく影響しているのではないかと、んとなくですが、葛城王族であった尾張氏とか

の力が記紀に反映したのではないかと想像します。なんの証拠もないですが…。


■ 豊受大神と月神


竹取物語の月に帰る話ですが、ちょっとだけですが、丹後風土記(残欠の)竹野の郡、奈具社の

祭神 豊宇加能の命(とようかのめみこと)と似ています。豊宇加能の命は、八人の天女の一人

で、子どものいない老夫婦に一度天衣を取られ、人間界に住むことになりますが、酒をつくり、

その土地も豊かになって、老夫婦の生活を豊かにしました。しかし、十余年後、突然天に帰れと

言われ、嘆き悲しみます。天への帰り方もをすでにわからず、結局奈具の村でこころ穏やかにな

暮らすことになります。


豊宇加能の命が、豊受大神と同じかどうかはわかりませんが

丹波と「豊」は深いつながりがあります。通説では、「豊」は単なる美称、「受」は「食物」と

されています。しかし、富家伝承本では、「豊」は「菟狭族」を指すものと書かれていました。


この豊受大神ですが、伊勢神宮外宮にやってきた契機は記紀には書かれていません。

延暦二十三年(804年)撰進の『止由気宮儀式帳』(とゆけのみやぎしきちょう)には次のよ

うに書かれています。


〝①天照大神は雄略天皇の御代、伊勢の五十鈴川のほとりに祀られた。

 ②その時天照大神は、天皇の夢に現れて、「高天原からこの地に鎮座したものの、一柱で並んで

 鎮座する神がいない。そのため御饌(食事)を心穏やかにとることができないでいる。だから

 丹波国の「比治の真名井」にいる「豊受大神」(「止由気神」)を、私の御饌都(みけつ)の

 神として呼んでほしい」と告げた。

 ③驚いた天皇は、伊勢・渡会の山田原に宮処(みやどころ)を定め、豊受大神を丹波国から勧請

 し、御饌殿を造って天照大神の「朝の大御饌・夕の大御饌」を調達することにした。〟

                      (山本ひろこ著『中世神話』岩波新書より)

しかし、中世の伊勢神道(外宮神道・度会神道)によれば、豊受大神は、「天之御中主神」という

根源神と同神とされ、水神でもあり、月神であるとされています。詳しくは→ウィキペディア 伊勢神道

               

籠(この)神社奥宮 真名井神社 京都府宮津市中野 

豊受大神が主祭神。古称「匏宮」(よさのみや)「吉佐宮」(よさのみや)と呼ばれていた。


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この明治初期まで外宮の神主家であった度会(わたらい)氏ですが、始祖天牟羅雲命とも、天日別
命とも云われています。天日別命は、伊勢風土記伊勢の先住民族 出雲族の「伊勢都彦」を討伐平
定した人物です。(伊勢の名前は、出雲族の神の名前です。)

伊勢国風土記逸文によれば、天日別命(あめのひわけのみこと)は、天御中主尊の十二世の子孫と
あります。そして、伊勢都彦に国譲りを迫るのでした。記紀の国譲り神話のような話が、書かれて
います。

伊勢神宮にあまり関係が無いような出雲族ですが、延暦23年(804年)の『皇大神宮儀式帳』に
このように書かれています。
“度会の家田の田上の宮に着いた倭姫命を、宇治土公(うじつちぎみ)の遠祖・大田命が出迎えた。
 倭姫命が「そなたの国の名はなにか」と問うと、大田命は「度会国で、この川の名は、さこくし
 ろ五十鈴川と申します。この川上によい大宮処(おおみやどころ)があります」と答えた。さっ
 そくご覧になった倭姫命は、そこを大宮処と定めた。
                       (山本ひろこ著『中世神話』岩波新書より)

猿田彦命の子孫である大田命が、伊勢神宮の場所を導き、五十鈴川の川上一帯を献上したとされて
います。日本書紀一書(第一)では、二二ギノミコトを日向の高千穂に導いた後、伊勢の狭長田の
五十鈴に帰ることになっています。アメノウズメノミコトが、猿田彦命を送っていくことになりま
すが、古事記では、阿邪訶(あざか)で、ヒラブ貝に手を挟まれて溺れてしまったことや、アメノ
ウズメがナマコの口を小刀で切ったりと、なにやら意味深で、忍者の女人の術のような話が書いて
あります。

富家伝承本には、天孫降臨神話の段に出てくる猿田彦命は伊勢津彦であり、アメノウズメは菟狭族
で、豊鋤入姫命がモデルといような話が書いてありました。

■ 菟狭族と出雲族

伊勢神宮の一番最初の元宮である奈良の檜原神社には、豊鍬入姫宮があります。第11代垂仁天皇
になって、天照大神を豊鍬入姫命から離して…とあるので、もともと陰陽の対立の構図であったの
かもしれません。

この豊鋤入姫命の出自ですが、
第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(と
おつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女です。

紀氏といえば、葛城の王族として古い氏族ですが、高群逸枝『母系制の研究』(講談社文庫)によ
れば、
〝紀伊は古名を木、等という。元来出雲神族の開拓経営せる国土であるが、それは後にいう。

で、五十猛命を祖とする系統と、天道根命を祖とする系統の少なくとも2系は存在する氏族ですが、

〝記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖道彦」とあるが、二文、何れも国造
 祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。”と書かれています。

おそらく、崇神天皇の頃(それよりも前かもしれない)、紀氏と菟狭族との間に婚姻関係が発生し
たのだろうと思います。

豊鍬入姫宮 

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富家伝承によれば、垂仁天皇の命による野見宿禰を頭領とする出雲軍による第一次派兵で天ヒボコ
族の討伐をし、第二次派兵で豊国出身者の軍(菟狭族)を東国の上野国と下野国に追い払い、
出雲族は関東南部に落ち着き住みついて、関東の国造になったとあります。

なぜ出雲族と菟狭族がそういう敵対関係になったのか。西の出雲王朝が物部・豊国連合軍に滅ぼ
れ、菟狭族に葛城の出雲族(賀茂氏)がヤマトから京都まで追い出されたのだそうです。

下鴨神社(賀茂御祖神社)   京都府京都市左京区下鴨泉川町59 
神武天皇を導いたという八咫烏だという賀茂建角身命と娘の玉依姫命を祀っています。



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# by yuugurekaka | 2016-12-31 18:27 | 月読命

■ 尾張氏、物部氏同祖 天火明命=饒速日命

丹波に発生した海部氏ー尾張氏の祖 火明命系と九州の日向から大和に攻め上がってきた物部の祖
が同祖というのは、なるほどと思う反面、後世のつくりごとでなかろうか?などの思いも浮かんで
きますがまずはそれを肯定して考えると、対出雲族では、尾張氏は半ば同族と化し、共に大和に葛
城王朝をつくる相手ですが、物部氏に到っては、西の出雲王朝を崩壊に導いた相手です。
いわゆる須佐之男命の和魂、荒魂の性格の違いのようにも見えます。

須佐之男命自体が、火明命あるいは饒速日命をモデルとした神だったと思うと
須佐之男命と出雲族との複雑な関係もなんとなくですが、そうかなあと思えてきます。

あの須佐之男命のヤマタのオロチ退治ですが、この年になるまであれこれ考えてきましたが
大国主命の系統の神門臣を(最終的には神門臣は、古志郷が拠点だった。ヤマタのオロチがやって
くる越とは出雲国古志郷だったのだろう。)やっつけて、西の出雲王朝を崩壊させた隠喩であった
のだろうと思っています。蛇信仰の出雲族なのに、オロチを切るはずはないのです。

物部氏は、初代天皇―天村雲命を神武天皇に挿げ替えて、尾張氏より、物部氏が大和では古いとい
うだけだけではあきたらず、ヤマト王権よりもさらに古い先住民族の出雲族の祖神を挿げ替えると
いう記紀の創作をしたんだと私は考えます。

ヤマタノオロチを切った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」)が、物部氏の神社「石上
布都魂神社」に祀られヤマタノオロチの体の中にあった草薙剣(別名「天叢雲剣」(あめのむらく
ものつるぎ))が尾張氏の神社「熱田神宮」に祀られているのが、暗に須佐之男命=火明命=饒速
日命を物語っているように思えるのです。

また、ヤマタノオロチの体の中にあった剣が、「あめのむらくも」という名がついているところを
見ると、出雲族のお腹から、
天火明命の孫(天村雲命)が生まれたということを云っているのかもしれません。

さて、須佐之男命が高天原で、狼藉を働き、天照大神が岩戸に隠れ、高天原が暗黒に包まれると
う話がありますが、
あれは、私思うに、物部氏・豊族(宇佐氏)の東征ー大和入りに伴って、葛城王朝の太陽神祭祀
できなくなったという隠喩ではないのだろうか?それで、天照大神は、鎮座する場所を巡りさまよ
うことになったのでしょう。

檜原神社  奈良県桜井市三輪1422 
崇神天皇の時代、宮中で祀っていた天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)にて
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が奉斎した所と伝わる。
天照大神の最初の遷宮地で、元伊勢と呼ばれる。

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■ 三輪山の太陽祭祀  

初瀬に行った折、初瀬小学校の近くのラーメン屋さんで、三つ鳥居と太陽暦の起源について教わり
ました。大神神社の三つ鳥居は、今より西北の所にあったらしく、そこから見える三輪山に登って
くる太陽の方向から、季節の節目がわかったといいます。

つまり、春分・秋分の日には三輪山から太陽が登るのを、三つ鳥居の真ん中の鳥居を通して見るこ
とができ、夏至の日の出は、左側の鳥居から見ることができ、冬至の日は、右側の鳥居から見える
という。

どこにそういう話が載っているのか、インターネットで調べましたら、 小川光三著『ヤマト古代
祭祀の謎』(学生社)に書かれているようです。
太陽の登る方向で、季節の変わり目を知る、なるほど、それによって、田植えをしたり、大きく
陽を仰ぎ見るという信仰が始まったのかもしれません。

さて、日本書紀の記載から考えると、三輪山の大神(事代主命あるいは大物主命)を奉祭していた
のは、葛城王朝の倭迹迹日百襲姫や、倭姫命のような独身の皇女だったようです。
しかし、三輪山の大神は、蛇体で、太陽神と違うではないか?そういう疑問が出てまいります。

箸墓古墳  奈良県桜井市箸中
宮内庁により、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓として治定されている。日本書紀 崇神天皇の条では倭迹迹日百
姫命は、三輪山の祭神大物主命の妻と書かれているが、当然ながら大物主命は先住民の祖神であって、生きている人間では
ない。また、倭迹迹日百襲姫命は7代天皇の娘であり、8代、9代、10代と生き抜いており、いったい何歳なのだろう。
 
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■ 蛇体のアマテラス

しかるに、アマテラスは蛇体との伝承もあります。
吉野裕子著『蛇巫から至高の女神へ ―アマテラスの変貌ー』の抜粋ですが、

〝皇女の使えるこの伊勢大神こそ実は蛇神という伝承がある。
 「伊勢神宮の滝祭りの宮は、いまこそ五十鈴川畔の手洗い場の側に、石だけが祀られている神社
  であるが、古来、重要な祭りに先立って祀られる社で、鎌倉時代は、場所も対岸にあって、こ
  の神こそ天照大神の前身とされている。その理由については、天照大神の神徳を五十鈴川の川
  水に祀るともいい、また鎌倉時代の『坂十仏参詣記』によれば、水底におられる竜宮がご神体
  ともいう。同じく鎌倉期の『扶桑略記』には、伊勢斎宮の夜ごとの蛇神との同床が伝えられ、
  荒木田神主家の伝承にも天照大神は蛇で、斎宮はその后である。そのために斎宮の御衾の下に、
  朝ごとに蛇のウロコが落ちている、とみえている(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』より要
  約)(斎宮とは斎内親王のこと)。 

                       ※ 斎内親王とは⇒ ウィキペディア 斎王
  
  要するに斎内親王は夜ごとに蛇と交わるべき蛇巫女であって、髪に櫛を挿すことによって蛇と
 化(な)りえたのであるが、斎内親王の本質はアマテラスのそれをそのまま引きつぐものである。
 とすれば、アマテラスこそ最高女蛇巫であったはずである。
                        (『吉野裕子全集 第11巻』人文書院 より)
 
この「夜ごとに蛇と交わるべき蛇巫女」を踏まえると、大昔は、太陽神は、男神であったはずです。
想像するに、ヒメヒコ時代(姉、あるいは妹、娘等がシャーマンとして祭祀を担い、弟あるいは兄、
父等が政治を担う)より、時代の変遷に伴って、男の天皇自らシャーマンとして祭祀することにな
り、天照大神が女性神に転化したしたのではないかという思いが浮かびます。
太古、女性が祭祀王として、地位が男性よりも高かったと思いますが、天照大神が女性神でもって
女性が地位が高かったという証明にはならないのではないかと思います。

ではその太陽の男神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ、アメノホアカリの別名)で
はないか、との説が浮かんできます、自分には全くそう思われません。
むしろ、大和から、アマテラスを叩き出した張本人ではないかと思うのです。

■ 天照大神、倭大国魂の対立

天照大神の祭祀が宮中にてできなくなる理由が、日本書紀崇神天皇の条に書かれております。

〝これより先、天照大神、倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢い
 を畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鋤入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀っ
 た。よって堅固な石の神籬を造った。また日本大国魂神は渟名城入姫命に預けて祀られた。とこ
 ろが、渟名城入姫命は、髪が落ち、体が痩せてお祀りすることができなかった。
                (『全現代語訳 日本書紀 』宇治谷 猛 講談社学術文庫)

 ※ 渟名城入姫命 第10代崇神天皇と、妃の尾張大海媛(意富阿麻比売)の間に生まれた皇女

通説では、倭大国魂神は、「大国主命の荒魂」となっていますが、そのあとの日本書紀の垂仁天皇
ところを読むと、そうは思えません。

〝このとき倭大国魂神が、穂積臣の先祖大水口宿禰にのりうつっていわれるのに、「最初はじまり
 のときに約束して、『天照大神はすべての天原を治めよう。代々の天皇は葦原中国の諸神を治め、
 私には自ら地主の神を治めるように』ということであった。…後略
                (『全現代語訳 日本書紀 』宇治谷 猛 講談社学術文庫)

始まりの時、イザナギに地上を治めるように言われた神は、日本書紀本書では、月読尊(青海原の
潮流を)と素戔嗚尊(天下を)です。しかし、素戔嗚尊は、「母について根の国に行きたい。」と
泣き、結局出雲の始祖となる展開です。
となれば、倭大国魂命は、素戔嗚尊である可能性が大です。それと、月読尊の可能性もあります。            

それから、体が痩せ細ってお祀りすることができなかった渟名城入姫命に代わって、大倭直の祖の、
長尾市宿祢(市磯長尾市)に命じて、倭大国魂神を祀らせます。
崇神天皇の条で、三輪山の大物主命をわざわざ事代命の子孫の大田田根子命を探し出し祀らせる話
がありますが、その時、大田田根子命とセットで記述されていますので、おそらく、大倭直の祖の、
市磯長尾市は、倭大国魂神の直系の子孫であると思われます。

市磯長尾市ですが、宇豆毘古(椎根津彦、珍彦)の7世孫です。この宇豆毘古というのが、神武天皇
東征神話に出てくる、亀に乗ってやって来て、水先案内や献策などを行う人物です。
籠神社には、亀に乗った銅像があり、籠神社に伝わる海部氏本紀の系図にも4代目倭宿禰として記
述されています。

始祖天火明命-天香語山命-天村雲命亦名天五十楯(妃-伊加利姫)-倭宿禰
始祖天火明命-天香語山命-天村雲命(妃-大屋津比売)-熊野高倉下      とあります。

しかし、海部氏勘注系図では、

始祖彦火明命-彦火火出見命-建位起命-宇豆彦命 ともあり、彦火火出見命は、綿津見大神の娘
である豊玉姫と結婚しています。
つまり、九州周りの豊族と結びついた物部氏の祖神 饒速日命であって、=月読命と結びついた
尊が倭大国魂神だったのではないのだろうか?
同じ天火明命の子孫ではあるが、出雲族と結びついた尾張氏では、倭大国魂神を祀ることはできな
ったということではないか…などと思いました。

続く


# by yuugurekaka | 2016-12-27 07:10 | 高照姫 (天道日女命)

■ 高照姫命は、イザナミ命のモデル?

海部氏勘注系図および先代旧事本紀の系図を見て、私が強烈に思うのは、天火明命と高照姫命

の二人が、ヤマト王権の始原というものであって、高照姫命が、海部氏・尾張氏・紀氏、また

その後継の蘇我氏、阿部氏等の古代豪族の母祖神であるということです。


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しかしながら、高照姫命という女神は日本書紀に出てもきませんし、古事記では、下照姫命の

別名「高姫」となっており、戦後の古代史学者が、「下照姫命と同神」としており、全く存在

感がありません。

いわゆる葛城王朝の豪族の母祖神であるが故に、イザナミという国土創生神にされてしまった

のではないか…と、いうのが私の想像するところです。だから、東出雲の方には、イザナミ信

仰なるものがあり、島根県と鳥取県の県境や島根県東部と広島県の県境の山にイザナミ御陵な

る伝承地が集中してるのだと思います。


黄泉平良坂(よもつひらさか) 松江市東出雲町揖屋


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その上の、高照姫命の母の宗像三女神とも考えれるのかもしれませんが、黄泉比良坂」の伝

承地が江市東出雲町にあることを考えると、高照姫命をモデルとしているようにしか思えな

いのです。

しかし、国土創世の神が死ぬのか…?、ここが、理解に苦しむところですが、他にも私が、釈

然としないのは、①素戔嗚命の八岐大蛇退治(出雲の神様を切ってもいいのか?)②国譲り神

話(ヤマト王権を共に造っていてヤマトに国譲りもなかろう)と、③黄泉比良坂の話です。こ

の話をここで展開すると、ややこしくていけないのでまたの機会に譲ります。

火の神を生んで―カグツチー、あれは、天香具山命ではないかと思うのです。天香具山命は、

奈良の葛木坐火雷神社の祭神で製鉄の神でもあります。高照姫命は、出産でなくなったわけで

はなくて、丹後風土記に母子で登場してきます。たぶん、亡くなった場所はたぶん丹波でしょ

う。

一方のイザナギ命のモデルになった、天火明命は、母子を残して、ぴゅーんと九州の宗像族を

頼って行き、九州を開拓したのでしょう。

詳しくは 過去の記事 ⇒  黄泉平良坂の考察 (2)  イザナギとの離婚


黄泉比良坂近くにある神社、揖屋神社ですが、日本書紀 斉明五年(659)のところで出てくる

言屋社」比定地でもあり、かなりの古社です。『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社

「伊布夜社」の比定地でもあります。

この「揖屋」ですが、もともとは「いや」ではなく「いふや」だったのでしょう。


現在の祭神は、伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命です。元は東出雲王家の系統の神社

あったのではないかと自分は思います。この揖屋神社は、日本書紀斉明天皇の条で、天子の

死の予兆として描かれております。黄泉比良坂」といい「揖屋神社」といい「死」というも

のと関連付けられています。


このことは、通説的には、大和から見て日が沈む西の方向に出雲地方があるため、「黄泉の国」

として位置づけられたのではないかと云われていますが、私思うに、これは「東の(事代主系

出雲王家)雲の王朝は滅びた、死んだ。」ということを、述べている「隠喩」ではないで

うか。



揖屋(いや)神社 島根県松江市東出雲町揖屋2229

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揖屋神社の境内社を見てみます。々は、揖屋神社とは独立した「伊布夜社」の比定神社です
が、揖屋神社本殿の向かって右手にある三穂津姫神社です。
日本書紀では、大物主命がタカムスビ命に大和服従の意思を示すために、押し付けられた姫神
ですが、元々は出雲風土記に見られる奴奈川姫命の間に生まれた御穂須須美命だったのかもし
れません。


三穂津姫神社

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本殿の向かって右手にある
韓国伊太氐神社(からくにいたてじんじゃ)です。これまた、別の
「伊布夜社」の比定神社ですが、今の祭神は、素戔嗚尊と五十猛命ですが、一般的には五十猛
命を祭るのが多いですが、五十猛命=天香具山命、高照姫命の生んだ子です。
本殿の祭神、仮にイザナミのモデルが高照姫命であったとすれば、事代主命、高照姫命の兄妹
を両脇を子供たちが囲む格好になっているように思えます。

韓国伊太氐神社
                       
                       
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■ 出雲の発生源

「出雲郷」の地名表示

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揖屋神社から西方に行くと、「出雲郷」の地名に出合います。松江市東出雲町出雲郷ですが、
これは「いずものさと」「いずもごう」でもなく、「あだかえ」と読むのです。
それは、すなわち、出雲郷に阿太加夜(あだかや)神社があるからです。
現在、出雲市や出雲大社などが、出雲国(奈良時代の行政区分)西部にあり、出雲の地名の
本源地が、西部だと一般的に思われており、自分も長らくそう思っていましたが、鳥越憲三
郎著『出雲神話の誕生』や富家伝承本を学習するにつれて、「出雲」の発生源が東部(現在
の松江市)だったのではないかと思うようになりました。

阿太加夜神社  島根県松江市東出雲町出雲郷587


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出雲郷にある
阿太加夜神社ですが、『雲陽誌』(1717年)は「大穴持命の御子阿陀加夜怒
志多伎吉比売命は神門郡多岐に坐となり、今此里に阿太加夜社勧請なるへし」と現在の出
雲市多伎町の鎮座する多伎神社から勧請したというような説明をしています。しかし、『
出雲風土記』(733年)には「阿太加夜社」として、既に載っており、本当に勧請され
ものかは疑わしい感じがします。
阿陀加夜怒志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ)について、奥原碧雲著『島根県秋
鹿村誌大正11年)には、高姫命(亦名下照比売 亦名雅国玉神 亦名阿太加夜奴志
多岐喜比賣 亦名大倉比売)と書かれております。まあ下照姫命も書かれていますが、古
事記で同神と書かれているのでそれで同神となっているんだと思います。
富家の伝承本では、阿太加夜奴志多岐喜比賣は多岐津姫だということになっています。
海部氏勘注系図および先代旧事本紀では、高照姫命は、多岐津姫命の娘となっていますの
で、母と娘で一緒に住んでいたのかもしれません。

出雲市多伎町に分布する同じ祭神は何をあらわすか?と考えてみました。妻問婚のルール
からすると、事代主命や高照姫命は、筑前の母族で育っていくはずですがそういう感じが
全くしません。となれば、宗像族というのは、出雲族と半ば同族化して、いろいろな場所
に、領地というか、宗像族が住んでいたことになるのでしようか。

仮に阿太加夜奴志多岐喜比賣=高照姫命だとすると、これが大和葛城王家の母祖なので、
「稜威母(イズモ)」となったのではないか…。 
しかし、これは漢字から読んだ語源説なので、漢字とは新しいもので、違うような気も
ます。
出雲の説には、いろいろな学者が、いろいろな説を立てておりますが、あまり、自分に
腑に落ちたものではありませんが、今の所、高照姫命が始原というか、大和から見た母祖
ということが、「イズモ」に関係しているのではないか…という気持ちが強いです。

続く

# by yuugurekaka | 2016-12-11 06:00 | 高照姫 (天道日女命)

思いついたのが、その日の夕方。

豊岡まで、JRの鈍行列車で乗り継いで、豊岡駅前のビジネスホテルで一泊。

豊岡駅で7時前の電車に乗り、天橋立駅に着いたのが、8時過ぎでした。

駅を出て、海を見ると、これが日本三景の天橋立ですか―。


下の写真は、駅側ではなく、北側の籠神社の上の傘松公園から写したものです。

天橋立は、丹後風土記逸文によれば、イザナギノミコトが天に通うことを目的として立てた梯子が、

休んでいるうちに倒れたものだと云います。


“初めの名を天の椅立と名付け、後の名を久志浜と名付けた。そう名付けたわけは、

国土をお生みになった大神である伊射奈芸命が、天に通おうとして、椅を作ってお立てになっ

た。それで、天の椅立と名付けた。伊射奈芸命がおやすみになっている間にその椅が倒れてし

まった。

それで、伊射奈芸命は霊妙な働きが表れたことを不思議に思われた。それで、久志備の浜と名

付けた。これを中古の時代には久志といっていた。ここから東の海を与謝の海といい、西の海

を阿蘇の海という。この両面の海に、種々の魚貝等が住んでいる。但し、蛤はすくない。”

     (釈日本紀 巻五「天浮橋」の抜粋 
          現代語訳 中村啓信監修・訳注『風土記 下』角川ソフィア文庫 より)

「ハマグリが少ない」の言は、よけいな気がします…が、イザナギノミコトに関係した地域なんだ

なと思いました。



傘松公園から見える天橋立  京都府宮津市

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■ 海部氏勘注系図に見られる高照姫


天橋立を渡ったところに、籠(この)神社が、鎮座しています。なんで籠(かご)なのか、彦火火

出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、龍宮に行ったことから命名されたとい

う。


祭神の彦火明命ですが、(⇒ウィキペディア 天火明命『日本書紀』では、ニニギノミコトの子ども、

あるいは、兄となっています。

また、祭神は、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊となっているらしい。

籠神社(このじんじゃ)一の鳥居   京都府宮津市字大垣430

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籠神社の宮司家、海部氏(あまべし)の所蔵する海部氏系図ですが、最古の系図として昭和51年

1976年)6月国宝に指定されました。『籠名神社祝部氏係図』と、『籠名神宮祝部丹波国造海

直等氏之本記』(以後「海部氏勘注系図」と称す)から成っています。

(詳しくは ウィキペディア 海部氏系図  ) 


さて、その内容の一部ですが、


◇ 国宝 海部氏勘注系図 巻首(原本 漢文) 抜粋 ◇


始祖 彦火明命

 またの名 天火明命 またの名 天照國照彦火明命 またの名 天明火明命 またの名 天照

 御魂命。

 この神は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三の御子にして、母は高皇産霊神の娘 栲幡千々姫

 命です。

 彦火明命が高天原に坐しし時、大己貴神の娘―天道日女命をめとって天香具山命を生みます。

 天道日女命はまたの名 屋乎止女命と云います。

 大己貴神は、多岐津姫命、またの名 神屋多底姫命をめとって、屋乎止女命、

 またの名 高光日女命を生みます。

                   …中略… 

 ここに火明命は佐手依姫命をめとって穂屋姫を生みます。

 佐手依姫命は,またの名 市杵嶋姫命、またの名 息津島姫命 またの名 日子郎女神です。

                   …後略…


(籠神社の宮司 海部光彦編『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』を

                         参考に平易な文章に変えました。)



大己貴神(おおなむち)の娘 天道日女命(別名 高照姫命)をめとったとあります。

つまりは、大己貴神が義理の父親になります。

記紀の編集者が見たら怒り出すような系図ですが、『播磨風土記』や『丹後風土記』でも、父親と

なっています。

詳しくは拙なるブログで⇒ スサノオ一族の上陸地(4) 播磨風土記・丹後風土記

それと、宗像三女神の市杵嶋姫命もめとったとあります。


なんと天孫族は、始祖からして既に、出雲族や宗像族と婚姻していることになります。

そして、その天火明命の後の海部氏、尾張氏が、初期大和王権の王族として葛城王朝を造っていく

ことになります。

富家伝承では、天火明命の孫となる天村雲命が、丹波から南下、磯城登美一族(大和の出雲族)と

三輪山の麓で初の王都を築くことになるそうです。つまりは、物部の東征は、もっと後代の話とい

うことになります。


それから、抜粋したところには載せてないですが、天火明命のまたの名として饒速日命あります。

つまり九州から攻め上がってきた物部氏と丹波から南下した尾張氏が、同祖ということです。


籠神社拝殿前の狛犬
鳥居をくぐって、そのさきの安土桃山時代の作品で国の重要文化財に指定されている狛犬がありました。
山陰では目にすることもない型の狛犬ですね。

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さて、写真はここまでで、拝殿からは、カメラNGとなっていました。過去に参拝された方のブログが
たくさんあることを考えると、カメラNGになったのはここ数年のできごとなのかもしれません。
どういう拝殿、本殿なのかは、⇒ ウィキペディア 籠神社


■ 『先代旧事本紀』に見られる高照姫

さて、物部系の『先代旧事本紀』(⇒ ウィキペディア 先代旧事本紀) では、どのように高照姫を述べ

ているかと云うと、

( 天璽瑞宝  さんのホームページの現代語訳を引用させていただきました。)


“その大己貴神の子は、合わせて百八十一柱の神がいらっしゃる。

 まず、宗像の奥都嶋にいらっしゃる神の田心姫命を娶って、一男一女をお生みになった。

 子の味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)は、倭国葛木郡の高鴨社に鎮座されている。

 捨篠社(すてすすのやしろ)ともいう。

 味鉏高彦根神の妹は下照姫命。倭国葛木郡の雲櫛社に鎮座されている。


 次に、辺都宮にいらっしゃる高津姫神(たかつひめのかみ)を娶って、一男一女をお生みに

 なった。子の都味歯八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)は、倭国高市郡の高市

 社(たけちのやしろ)に鎮座されている。または甘南備飛鳥社(かんなびのあすかのやしろ)

 という。

 都味歯八重事代主神の妹は高照光姫大神命(たかてるひめのおおかみのみこと)。倭国葛木

 郡の御歳(みとし)神社に鎮座されている。

                       (『先代旧事本紀』巻四 地祇本紀 )



なんと高照姫命には大神命の称号がついています。

『海部氏勘注系図』に書かれていることと、『先代旧事本紀』に書かれていることを合わせて、系

図を作成すると以下の通りとなります。大己貴(大穴持とも書く)が、富家伝承では、何代にも渡

る役職名であって固有名詞でないとすることを考えると、同じ名前ではありますが、別の神という

ことになりましょう。(富家伝承系図とは多岐津姫・田心姫・下照姫の記載が違っています。)

東出雲王家出身の天冬衣命の子どもであり、高照姫は、事代主の妹ということになります。

また、高照姫命と事代主命は、母系をたどると宗像族となり、海人族の性格を持ちます。


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籠神社の奥宮、現在の真名井神社に参拝しました。昔は匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)

・与謝宮(よさのみや)・久志濱宮(くしはまのみや)とも呼ばれていたらしい。

主祭神は、伊勢神宮外宮の豊受大神です。


籠神社の奥宮 真名井神社
現在修造中で、拝殿前も工事中のトラックがありました。

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丹後風土記(残欠本)を見ると、丹後が豊受大神の発生源のようです。(天女伝説)

九州の豊国の「豊」の始まりがここだったとは。

天火明命が丹波に来る前は、丹波の元々の祖神だったのかもしれない。

通説的には、天照大神の食事のお世話をする神として、天照大神と半ばセットになっていますが、

たぶん、そういう単純な話ではないようです。

富家伝承では、三輪山の太陽神を奉祭していた磯城登美族(大和の出雲族)と月神を奉祭する豊族

(宇佐族)と宗教戦争が勃発し(狭穂姫命VS豊鋤入姫)、大和に居られなくなり、太陽神信仰の祭

祀場所を探し彷徨うことに至ったように書かれていました。(斎木雲州著『古事記の編集室』大元

出版)

天照大神の2度目の遷宮地であった籠神社ですが、その期間は4年ほどであったようです。


続く


# by yuugurekaka | 2016-12-03 14:40 | 高照姫 (天道日女命)

お隣の鳥取県にある日吉津村(ひえづそん)に行ってきました。

日吉津村は、米子市に囲まれた鳥取県唯一の村です。

イオンモール日吉津もあり、映画も松江市よりはいろいろ見れたり、お笑い芸人もよく来たり

しますので若い人たちは、松江市からもよく行くようです。

日野川の流域の東側に位置します。

最近雨ばかり降っていましたが、久しぶりに雨が止みました。しかし、曇り空でした。

日野川の土手から、大山を写しましたー。


日吉津村から見える大山

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なぜに日吉津村に来たかというと、

このごろは、斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』を神社・遺跡巡りのガイドブックにしている

のですが出雲国造神賀詞(かんよごと)に出てくる神様、「賀夜奈流美命」のことが載っていま

して、鳥鳴海命(9代目大穴持)が日吉津村の地名である「蚊屋」に祀られたから、賀夜奈流美

命とも呼ばれるようになったと書かれていました。※賀夜奈流美命は、大和の飛鳥坐神社の祭神

その祀られている神社が、日吉津村の蚊屋島(かやしま)神社だというので、参拝したくなり来

てみました。

かなり立派な社殿でした


蚊屋島神社  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354

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現在の祭神です。


祭神 天照皇大神、高比売命(たかひめのみこと)

合殿=豊受姫命、大年神、天萬栲幡豊秋津姫命、天手力雄命、天若彦神

合祀=級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、素盞鳴尊、大己貴命、事代

主神、金山彦神


しかし、残念ながら、現在は「賀夜奈流美命」の名前は見えません。

おかしいなと思い、過去の事柄が載っている、

『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年発行)を見てみました。



拝殿の額と龍の彫刻 
拝殿と向拝の上部に3体の龍が彫られており、
江戸中期松江藩の木工方「小林如泥」の晩年の作と伝えられているようです。

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“ 創立年代詳ならざれども、当社は旧天照高比売命を祀りしとの口碑あり。

 然るに社領証文を始め棟札及び神主裁許状などによれば日吉津村大神宮とも伊勢宮とも、

 又後には天照皇大神宮とも記して、専ら天照皇大御神を祀りしが如くに見ゆ。

 是れ天照の字に泥み天照大御神と思ひ誤りて大神宮とも伊勢宮とも唱えしものか。

 此故にや美濃村旧家進氏の雑集紀に「日吉津大神宮」の祭神往古と今と相違有之」と云えり。

 かく祭神に相違を来たせしも古よりの口伝の捨て難くてか、嘉永の社帳以後は天照高比売命

 をも合せ祀りしものと思はる。

 伯耆誌に「郡中顕要の社なり社殿に祭神 天照大御神豊受姫命と記し、衣川氏の作るれる祝詞

 も(田蓑日記に見ゆ」右の趣なれど確徴ある事を聞かず、又天乃佐奈咩神と称するは前年或人

 三代実録に因りて設けたる説なりと云へり。

 今按ずるに三代実録に元慶七年十二月二十八日庚申伯耆国正六位上天照高丹治女神云々授従五位下と

 ある神にはあらざるか。

 此神は古事記伝に大己貴命の御子高比売(一名下照比売命)にやとあり。

 若し然らば天照の文字より誤り伝へて後世伊勢大神宮と称するにや、此他考ふる所無し」と云えへり。

 又旧神職田口家氏の伝へに、代々弓射る事と雉子の肉を食ふ事を厳く禁ず(当社の氏子鹿の肉を食はず

 との伝もあり)

 之れ天若彦の古事に因みてなるべし。

 今上の祭神より考ふるに豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見

 命、猿田彦大神、 天太玉命、神倭姫命は天照大御神を主神とせるより祀りしなるべく、大己貴命、

 事代主神、賀夜奈流美神(以上嘉永以後の社帳に拠る) 

 天若彦神は天照高日女神を主神とせるより合せ祀りしものならんか。

 されば当社の祭神は昔は天照高日女神なりしを、何時の頃よりか誤り伝へて天照大御神と変りしも、

 古き伝への捨て難く天照高丹治女神をも合せ祀ることとなりて主神二柱となりしならんかと云へり。”

 以下略


「賀夜奈流美神」の名前確かにありました。

ところで、現在「天照皇大神、高比売命」の二神を祀っていますが、

元々は、「天照高比売命」を祀っていて、

「天照」の冠がついているので、「天照大御神」と誤ったのではないかと。

そして、本当の祭神は三代実録に載っている884年頃の「天照高丹治女神」のことではないかと。

「天照高比売命」「天照高丹治女神」、この神は、

まぎれもなく、丹後国一宮の籠神社(京都府宮津市大垣)の祭神「彦火明命」(天火明命)の妻

神 高照姫(別名 天道日女命)ではないですか。

「天照高丹治女神」の「高」は「高姫」の「高」、「丹治」は「丹波を治める」だと思うのです。

この高照姫は、「海部氏勘注系図」によると大己貴命(おほなむち)の娘となっています。


そういえば、天火明命も別名「天照国照彦火明命」で「天照」の冠が付いています。 

本殿


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続く

# by yuugurekaka | 2016-11-27 21:25 | 高照姫 (天道日女命)