■ 母塚山より眺望

新年に母塚山(はつかさん)に登って、手間山を眺めた。

母塚山展望台から見える手間山

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母塚山は、伯耆国と出雲国の境にあるイザナミの御陵伝承地である。
展望台から母塚山頂まで歩いて、イザナミ御陵地をお参りした。
イザナミ御陵伝承地が、お墓山(鳥取県日野郡日南町大菅)といい、島根県伯太町や広島県庄原町の比婆山といい、出雲国の国境沿いにある。孝霊天皇の出雲攻め(いわゆる鬼退治)に関係があるのではないか。

母塚山頂の伊邪那美神陵墓

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左手に遠く孝霊山が見える。
展望台にあった地図によれば、孝霊山の左手の高台は妻木晩田遺跡(日本最大の弥生集落遺跡)のようだ。
倭国大乱時代の遺跡だ。

そういえば、手間山のもう一山超えた日野川流域は、孝霊天皇+吉備族の侵攻の伝承地である。
はて、手間山の麓の鴨部氏や大和から来た人たちが、葛城の王である孝霊天皇といっしょに来た人たち(となれば弥生時代末期)ならば、その時代は、出雲国の出雲族の味方であったのか?敵方だった可能性すらある。



母塚山展望台から見える孝霊山

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■ 手間山の東 星川郷・巨勢郷

平安時代中期には、手間山の北部、北西部を「会見郡 天万郷」、南西部を「会見郡 鴨部郷」、東部を「会見郡 星川郷」と云った。『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。
さて、この「星川郷」だが、
〝古くは、武内宿禰の子孫の波多臣(はたのおみ)の一族に星川臣があり、巨勢男柄宿禰(こせのおがらのすくね)の子を星河建日子(たけひこ)と言ったと伝えられる。会見郡内に巨勢郷があることと関連するとも考えられる。〟(徳永職男 著『因伯地名考』 鳥取郷土文化研究会 )(太字は 私)
巨勢郷は、星川郷に隣接しており、北東部にあったであろうと言われている。

『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。

大和国皇別 星川朝臣 朝臣  石川朝臣同祖武内宿祢之後也敏達天皇御世。依居改賜姓星川臣

敏達天皇の御世となると、6世紀の終わりの頃だ。
なお、大和国にも「高市郡巨勢郷」「山辺郡星川郷」がある。
おそらく古代豪族 紀氏(→ウィキペディア 紀氏 )の系統の一族が、かなり古くから手間山の東方面に土着していたと思われる。

■ 中世の手間山の麓

なぜ京都の賀茂神社に糾合されるにいたったかということが疑問である。なかなか良い文献に見当たらなかったが、『会見町誌』(1973年発行)に公地公民制から荘園への道筋がわかりやすく書かれていた。

〝こうした律令制度の下で貴族や社寺には、公地制に反する多くの土地の領有が認められていた。一方では人口の増加によって口分田が不足してきたこと等、こうした問題の解決として、養老七年(723)の「三世一身法」や、天平十五年(743)には「墾田永代私有令」が出されたので、皇族、貴族、社寺および地方の豪族たちは、競って開墾をすすめ、墾田が増えていった。こうしたいわゆる「墾田によってできた荘園」が、八世紀から九世紀にかけてできたのである。これは要するに律令政治のもととなった公地公民制も律令制そのものの矛盾から次第にくずれていった。
しかしこの結果、田畑はふえ、生産は高まったが、このようにして開墾した土地は永久に私有することはできても、租税を収めなければならなかった。…中略… そこで自分の開墾地を、中央の有力な皇族、貴族や社寺に寄付し、名義上ではそれらの所有であるとして租税の免除や検田の除外をかちとり、そのかわり収穫の一部を毎年おさめ、自分たちはその荘園を管理する荘官となって事実上の所有者となった。こうしてできた荘園を「寄進によってできた荘園」という。…以下 略…〟(『会見町誌』 1973年発行)

それで、荘園が発生し、賀茂神社や法勝寺へとつながるのか。
中世において「天万郷」→「富田庄」など、「鴨部郷」→「長田庄」、「星川郷」→「星川庄」「小松庄」( あくまでも「→」は全て同じ地域を示すものではなく、郷内に荘園が発生したことを示す。)などと呼ばれ方も変わる。

この富田庄、長田庄の名称は、事代主命に由来しているような気もするが、いろいろな本を調べてみたが、何もわからず。
それよりも、だれが、事実上の領主であったか?
 
■ 藤原氏と紀氏 

鴨部郷がほとんど長田庄となったが、どこの貴族の監督下にあり、だれが実権を握っていたのか。

〝しかしおそらく七・八代の藤原氏はあったであろうが、氏名は勿論、業績一切不明、ただ古代以来の村々を継続していたのであろう。ただし藤原氏はその領家として、九条家をいただき、長田庄の名目上の領主は九条兼実であったことも推定できる。〟(『西伯町誌1975)
(※ 太字は私)

それゆえ、ここ長田庄の氏神の長田八幡宮であるが、『西伯町誌よれば、藤原泰豊(右衛門尉泰豊)康永二年(1343年)に建立したということだ。

長田庄の産土神 長田神社の位置
手間山の西麓の神社をピックアップしてみた。






しかし、『吾妻鏡』には、建久元年(1191年)十一月六日の条に「大舎人允藤原泰頼お迎えのため参向、且つ愁申す伯耆国長田庄得替の事」とある。つまり、源頼朝の上洛の折に、奪われた長田庄を取り返したいと申しでたということだ。
もともと平安時代の終わりに藤原氏のものであったが、とられてしまったということだ。だれがとったかなかなかわからなかったが、
『西伯町誌』(1975)によれば、

〝奪ったものはだれか、それは平家方の有力武士紀成盛であろう。成盛は建久元年から六年前寿永三年の一の谷戦に平家方として参加し敗れて帰国している。それより十二年前の承安二年には大山寺を再建している。その大山寺の本尊地蔵菩薩の厨子銘に「会東郡の地主」とかいてある。会東は会見郡の東ということ、そのことは彼とその一族が西伯耆全域を支配したことを誇示したものである。また大山寺縁起によると、平安中期富田庄司が大山寺に強い勢力をもっている。富田庄は今の会見町である。伝承によると富田庄司も紀海六兵衛成盛であったという。又、成盛の本拠は岸本町長者原であり、成盛の塔という古廃寺が岸本町坂中にある。紀氏は成盛一代ではなく古代末から近世までこの地方にきこえた豪族である。『西伯町誌)(太字は私)

紀氏であったのか。紀成盛をウィキペディアで調べると、→ウィキペディア 紀成盛
〝紀成盛の一族、紀氏は元々中央の官人であったが伯耆守として赴任後、土着して在地領主となった。

ここで言う伯耆守という国司が、
延暦4年(785年) 正月15日に兼伯耆守 紀 白麻呂 のことのように思う。

紀氏自体、奈良時代の貴族である以前は、葛城の王族の一族である。そのような奈良時代の終わりではなく、もしや、もっと古く孝霊天皇とともに伯耆に来ていたのではなかろうか。奈良時代の郷名に紀氏の分家の名があるからである
紀氏であれば、アジスキタカヒコ命や高照姫命を祭神にしていても不自然ではない。

■ 長田神社の祭神 

手間山西麓の神社は、賀茂神社や八幡宮よりも、前の時代はどのような神を奉祭していたのだろう。なぜに西麓かというと、奈良の三輪山と大神神社の関係のようなそういうものの足跡のようなものはないかと思う次第である。
まずは、倭の賀茂神社である。

『鳥取県神社誌』によると
祭神は、別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命である。
賀茂神社を勧請したのだから、「別雷命、神武天皇」をはずす。そして、大正五年、六年に合祀された祭神をはずすと「天照大御神」のみ残る。もとは、手間山に登る太陽信仰の社だったかもしれない。

でも、祭神は時代によって消されたり、後付けされたりするものだから根拠としては弱いものである。ただ頭をよぎる程度の話である。

しかし、なぜ大和の天照大御神は、大和に居ることができなかったのか。富家伝承本では、太陽神(出雲族)VS月神(宇佐族)ということだったが、孝霊天皇の出雲攻めが影響しているのではなかろうかと、ふと思った。母系(イザナミ・天照大御神・高照姫命)の側につくか、父系(イザナギ、素戔嗚尊、天火明命)の側につくか…ということもあるのかなという思いがめぐった。

長田神社 石段
かなり急で長い石段であった。こういう石段は、登るのに険しいので、よく何段あるか数える。
が、数えている最中、訳がわからなくなってくる。
177段あったような気がするが、ある方のサイトでは176段と記載してあった。

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さて、賀茂郷(鴨部郷)であったところの長田庄の長田神社である。もともとは八幡宮であったものだ。
『鳥取県神社誌』によると
当社氏子の範囲は延長三里に亘り大小部落34、現今四ヶ村に跨り此一帯の地方を古来長田庄と称せり。
 明治維新の際、八幡宮の称を廃し庄名に因りて今の社号に改めらる

氏子の範囲が広く祭神も多く 23もの祭神だ。

多古理比売命、田岐津比売命、市杵島比売命、誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、句々廼智神、稚日女命、保倉神、大日孁貴尊、倉稲魂尊、五十猛命、伊弉諾命、伊弉冉命、大山祇命、月読尊、武内宿禰、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命、岩猛命

社歴である。当神社は往古より八幡宮と称し奉り。 其創立年月不詳かならざるも、所蔵の棟札に徴するに康永二年卯月日造立記文のもの最も古く、天正13年(1585)雲三沢城主佐々木三澤少輔八郎為虎御隠居為清公社殿造営あり万治2年及延宝9年(1681)、因伯太守源朝臣光仲公再建せられ、当時社領七石九斗其他麻地幕提灯(御紋附)を寄進せらる。領主及武門の帰依又厚かりしを見るべし。

大正5年12月
法勝寺村大字馬場字ヨメコロシ鎮座無格社大﨏神社(祭神 素盞鳴命)
同村大字同字家ノ上鎮座無格社稲荷神社(祭神 倉稲魂尊 )
大国村大字與一谷字大林鎮座無格社大林神社(祭神 須佐之男命)
同村大字鍋倉字荒神谷鎮座無格社前田神社(祭神 誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、稚日女命、保倉神)
同村大字絹屋字宮ノ前鎮座無格社森脇神社(祭神 句々廼智神)を合併す。

同6年4月8日
法勝寺村大字法勝寺字五反田鎮座無格社机田神社(祭神 句々廼智神)
同村大字同字杉﨏山鎮座無格社杉﨏神社(祭神大日孁貴尊、岩猛命)
同村大字武信字ナシノ木下鎮座無格社武信神社(祭神 伊弉諾命)
同村大字徳長字権現谷鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾命、伊弉冉命) を合併。〟 

八幡宮の祭神と考えられる「誉田別命、気長足姫命、足仲彦命、宗形三女神、武内宿禰」をはずし、大正5,6年に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命」が残る。
当然ながら菅原道真公は、後付けされたもので、大鷦鷯命(仁徳天皇)も、佐々木源氏の由縁かもしれぬが後で祭神に加えられたのではないか。(浅学のため、なぜ出雲の三澤氏の頭に佐々木がついているのかよくわからない。)
大正時代に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命・事代主命・瀬織津比売命」が残る。

もともと、鴨部郷だったから、事代主命が祭神で不思議はない。五十猛命は、紀氏の祖神であるが、紀氏の勢力は長く続いているのでいつの時代の話かわからない。
残る瀬織津比売命であるが、どの氏族が奉祭しているかよくわからないが、長田神社の周りは南北に法勝寺川、東に東長田川、西に山田谷川が流れており、ちょうど結節する場所である祓いの神とされて、穢れを川から海へ流すとされているから、禊払いの祭祀が行なわれていたかもしれないし、治水神として祭ったのかもしれない。

向こうに見えるは手間山、長田神社の前を流れる山田谷川

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# by yuugurekaka | 2018-01-13 15:18 | 賀茂

■ 手間天神

地図で、手間山(てまやま)と母塚山、出雲国賀茂神戸の比定地ー大塚町を表わしたものである。平安時代、手間山の北部、北西部を「天万郷」、南西部を「鴨部郷」、東部を「星川郷」と呼ばれていた。大塚町から手間山の北部まで出雲古道が、走っていた。安田関を通って、母塚山(はつかさん)を抜けて、手間山の北部の麓につながる奈良時代の道路であるが、地図上でみると、大塚町と鴨部郷は近いということがわかる。

グーグルアースの地図 
地図に私が、黄色で加工したものである。星印は、大塚町の八幡さま、宮前の賀茂神社、倭の賀茂神社、掛合の賀茂神社の場所を示している。

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この手間山であるが、地図や本に要害山とか、いろいろ書いてあって、混乱したが、大国主命の受難伝説で有名な赤猪岩神社がある北西部部の膳棚山、北東部の峰松山と最も広く高い要害山を合わせて、手間山というのではないかと思う。

天万山とも呼ばれたという。手間山山頂には、赤猪岩神社の元宮がある。


古事記にも、大国主命の受難伝説で「手間」(てま)の地名が出てくる。どういう由来の地名なのか。

〝伯耆誌によると、門脇重綾の説を紹介し、スクナヒコナノミコトはカンムスビノカミの手のまたからこぼれ落ちた小さな神様で、手間天神ともいわれるところから、その神様にちなんだ地名であろうという。〟(『郷土史蹟めぐりー西伯耆編ー 鳥取県立米子図書館編』 米子 今井書店発行)


つまり、手間天神=スクナヒコナノミコト(出雲風土記では、須久奈比古命)である。

JRに載っていると、車窓から見えてくる大橋川の小島に見えるあの神社の祭神だ。

カンムスビノカミの手の間からとなっているのは、古事記で、日本書紀では、タカムスビノカミとなっている。


『日本書紀』の少彦名命の記述であるが、

〝「私は日本国の三諸山に住みたいと思う」と。そこで宮をその所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神のみ子は賀茂の君たち・大三輪の君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。別の説では、事代主神が、大きな鰐になって、三島の溝姫、あるいは玉櫛姫という所に通われた。そしてみ子姫蹈鞴五十鈴姫命を生まれた。これが神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后である。〟

(宇治谷 孟 全現代語訳 『日本書紀』 講談社文庫)


「別の説では」となっているが、スクナヒコナノミコト=事代主命というようにも読める。カンムスビノカミあるいはタカムスビという天神の御子が、出雲の事代主命というのに違和感をもつ人がいるが、出雲の神は、ひたすら国津神で、天津神ではないという図式がそもそも

古代史を見る目を狭くしているのではないか。婚姻関係を通じて、天神になったり、国津神になったりする。


〝事代主命の系等である。同命は父系によって地祇氏となっているが、母系によって高魂裔の天神氏となっていることもある。大和神別の飛鳥直は、「天事代主命之後也」とある。飛鳥直は飛鳥社の神主、その飛鳥社は事代主命を祀る神社である。〟(高群逸枝著『母系制の研究 (下)』 講談社文庫)


京都の賀茂氏が天神で、奈良の賀茂氏が地祇であるのは、こういう事情が影響しているのだろうか。

手間天神から由来して、手間山というのだから、太古は、奈良の三輪山のように、スクナヒコナノミコトを祭るカンナビ山だったのではなかろうか。


■ 麓の賀茂神社


手間山の麓には、奈良に由来しているんではなかろうかと思うような地名に出会う。たとえば、「倭」である。


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明治10年~22年の倭村という村名から現在の集落名として残っているが、様々な地名辞典で調べたが、由来が書いてなかった。

手間山の反対側の、「高姫」である。事代主神の妹神の名前である。

その由来を調べると、鎮守の高野女神社からきているという。今は宮前の賀茂神社に合祀されている。その高野女神社をいろいろ探したが、見つからなかった。


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とうぜん祭神が、高姫(高照姫)命かと思いきや、伊勢神宮の遷宮地を探した倭姫命だった。

記紀に出て来ない神様でないので、祭神が変わったのだろうか。


さて、手間山の麓にある賀茂神社三社であるが、奈良の鴨神、高鴨に関係した神社がないか調べてみた。『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年)によれば、(太字、下線は私)


倭の賀茂神社 「祭神 別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命 由緒 創立年月不詳かならざるも、京都賀茂別雷神社より御分霊」とある。


掛合の賀茂神社 「祭神 別雷神 由緒 創立年月不詳、往古より該村内産土神にして賀茂大明神と稱せしを」


うーん、奈良の鴨神ではなく、京都の上賀茂社の勧請のように書かれてある。


宮前の賀茂神社

「祭神 阿遅鉏高彦根神、大己貴命、少彦名命、別雷神、倭姫命、玉依姫命、天照荒魂命、素盞鳴尊、倉稲魂命、誉田別命、大津見命、栲幡千々姫命、天児屋根命  創立年代不詳、三代実録に貞観九年四月庚午八日伯耆国正六位上賀茂神従五位下とあるは則ち当社にして、棟札にも此年号のもありたり、当社に阿遅鉏高彦根神を奉祀せるは、古事記の故此大国主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘売命、生子阿遅鉏高彦根神とありて、西伯郡成実村大字宗像と近きを以てなり、賀茂註進雑記の賀茂別雷社御領荘園の内に伯耆国星河庄、稲積庄とあり当社社帳記する處によれば星河庄十一ヶ村の総社とありて…、」


賀茂神社 鳥取県西伯郡南部町宮前


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この宮前の賀茂神社だが、阿遅鉏高彦根神を祭っており、成実村の宗像神社が近いから…と理由が書かれているが、宗像三女神が祭神だったら、わかるけれども、しっくりこない。元は奈良の鴨神の社だったけれど、京都の上賀茂社(賀茂別雷社)の荘園になるにしたがって、上賀茂社由来の賀茂神社となったのではないか。しかし、これは単なる想像でしかない。





# by yuugurekaka | 2017-12-30 14:19 | 賀茂

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によると、

鴨神  八十四戸 大和卅八戸 伯耆十八戸 出雲廿八戸 となっており、伯耆国にも賀茂神戸が存在していた。

この賀茂神戸は、伯耆のいったいどこにあったか定かではないが、
一つの説として、会見郡鴨部郷(その昔は 賀茂郷)のどこかにあったのではないかとも言われている。

会見郡とは、島根県の県境に位置する伯耆国のもっとも西部の地域である。出雲古道をそのまま、鳥取県境を出て、手間関を通って、左手に天万郷、右手に鴨部郷と云われている。そういう位置関係からすると、出雲国賀茂神戸とは近くである。
改めて訪れてみて、天万郷から鴨部郷は、赤猪岩神社など大国主命伝承地だったと思い出した。
古の氏族分布が、古事記の伝承に影響していたのではないかとふと、思い浮かぶのだった。


鴨部郷の中心地だったのではないかとされる鴨部集落であるが、平安時代の古代地名が、今もなお残っている地域である。

国土地理院の地図に見える鴨部集落の地図 

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南北に流れる法勝寺川の流域に開けた集落のようだ。


下鴨部付近の法勝寺川 

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『伯耆誌』(景山粛 著 1858年)の抜粋であるが、(※漢字の写し間違いはあるかもしれない)

和名抄に鴨部と見へたる地なり讃岐國阿野郡伊豫國越智郡土佐國土佐郡に同名あり姓氏録に鴨部祝ありて大國主神之後也と見ゆ(未定の部にも同姓あり)此氏族の采地なりしなるべし汗入郡松波氏か京都穂井田忠友の所蔵と寫せる東大寺古文書の中に左(下記の)の一書あり

  優婆塞舎人事
                  伯耆國會見郡賀茂卿戸口賀馬戸口
貢 賀茂部秋麿年廿
                   神護景雲四年六月廿五日
                持經位法師  惠 雲 少 鎭 實 志
                 七月九日

神護景雲四年は、770年である。その頃、伯耆国賀茂郷の20歳の秋麿という人が、奈良の東大寺に行ってお坊さんになったということだ。
古に「大國主神之後也」の豪族が住んでいたのかもしれない。


# by yuugurekaka | 2017-12-20 23:30 | 賀茂

■ 土佐国に流された高鴨の神

『続日本紀』(797年)に高鴨の神のことが書いてあった。

"天平宝字8年11月庚子(七日)
再び高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨の神について、円與とその弟の中衛将監・従五位下の賀茂田守らが[つぎのように]言上した。
昔、大泊瀬天皇(雄略天皇)が葛城山で狩をされました。その時に老夫がいて毎度天皇と競争して[獲物の]とりあいをしました。[そこで]天皇はこれを怒り、その[老]人を土左国に流されました。[これは私達の]先祖が[祭祀を]掌っていた神が化身し老夫と成ったもので、この時[天皇によって大和国から土左国へ]追放されたのです。<分注。今、以前の記録を調べたところ、この事件は見当たらない。>
 ここにおいて天皇は、早速[賀茂朝臣]田守を[土左国に]派遣して、高鴨の神を迎えて、本の場所に祠らせた。(『続日本紀』直木孝次郎 他訳注 平凡社)

葛城山と葛城一言主神社

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この高鴨の神との狩りの話であるが、『日本書紀』(720年)には、高鴨の神ではなく、葛城の一言主神との話が書いてある。

〝四年春二月、天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現し、谷間のところであった。…中略…「自分は一言主神である。といった。そして、一緒に狩りをたのしんで、鹿を追いつめても、矢を放つことを譲り合い、轡を並べて馳せ合った。言葉も恭しく仙人に逢ったかのようであった。日も暮れて狩りも終わり、神は天皇を見送りされて、来目川までお越しになった。このとき、世の人々は、だれもが「天皇は徳のあるお方である」と評した。〟(『日本書紀』全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫)

葛城の一言主命には、まことに友好的な書き方だ。「徳のあるお方」というが、雄略天皇の別の記事を見る限りでは、ほとんどの記事が腹をすぐ立てて殺してしまう残忍な天皇として描かれている。坂合黒彦皇子と眉輪王をかくまった葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)も焼き殺されてしまう。

葛城一言主神社 拝殿  奈良県御所市森脇432 
祭神は、葛城之一言主大神と幼武尊(雄略天皇) 詳しくは、→ ウィキペディア 葛城一言主神社

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また、鴨族の神を神と思わぬ記事もある。

〝七年秋七月三日、天皇は少子部連(ちいさこべのむらじ)スガルに詔りして、「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕らえてこい」といわれた。スガルは、「ためしにやってみましょう」とお答えした。三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せした。天皇は斎戒されなかった。大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせた。天皇は恐れ入って、目をおおってご覧にならないで、殿中におかくれになった。そして大蛇を岳に放たせられた。あらためてその岳に名を賜い雷とした。(『日本書紀』全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫)

だから、葛城山で共に狩りをした、高鴨の神を土佐国に追放したとは、さもありなんと思うわけである。高鴨の神とは、葛城の一言主神だったのか。
それを裏付けるように、土佐国風土記逸文の記事がある。

〝土左高賀茂大社

  ()(さの)(くに)の風土記に()ふ。土左郡(とさのこほり)郡家(こほりのみやけ)の西に去ること四里に高賀茂(たかかもの)大社(おおやしろ)あり。その神のみ名を一言(ひとこと)(ぬしの)(みこと)と為す。その(みおや)(つまびら)かならず。一説(あるつたへ)()へらく、大穴(おほな)六道(むぢの)(みこと)(みこ)(あぢすき)高彦根(たかひこねの)(みこと)なりといへり。(『釈日本紀』巻十二「一言主神」・十五「土左大神」


土佐神社 高知県高知市一宮しなね2丁目16−1

最初 土佐の「賀茂之地」に祭られ、後に「土佐高賀茂大社」(土佐神社に比定されている。)に祭られたとされている。

祭神は、味鋤高彦根神・一言主神。詳しくは→ ウィキペディア 土佐神社


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                                         By 663highland, CC 表示 2.5, Link

一言主命は、事代主命だと思っていた。「一説」というわけだから、味鋤高彦根命というのは元々異説だったのではなかろうか。
異説が書かれることによって、通説になっていくのだろうか。

『新抄格勅符抄』(806年)の神戸とも照合する。

高鴨神 五十三戸 大和二戸 伊与卅戸 天平神護二年符 土佐廿戸 天平神護元年符

なぜ、土佐国だったのだろうか。
土佐国造は、『先代旧事本紀』によれば、

都佐国造

成務朝の御代に、長阿比(ながのあび)()と同祖・三嶋(みしまの)(みぞ)(くいの)(みこと)の九世孫の小立(おたちの)(すく)( とある。

また、『賀茂朝臣本系』という新撰姓氏録逸文の伊予国、土佐国に関係する賀茂氏の抜粋であるが、

伊予国鴨部首  神魂命の譜で御多弖足尼(みたてのすくね)が祖。
土佐国賀茂宿禰。同国鴨部 神魂命の譜で小忍瓶足尼(おおしみかのすくね)が祖。
伊予国賀茂朝臣。同国賀茂首 神魂命の譜で小乙中勝痲呂(おとなかのすぐりまろ)が祖。

と、ある。葛城の賀茂氏が、伊予国や土佐国に分布しているのがわかる。 

この土佐国造の祖三島溝杭命」であるが、事代主神の妃ー活玉依姫の父親である。(→ ウィキペディア 玉櫛媛 )
葛城の賀茂族の始まりは、そもそも摂津の三島家に出雲の事代主命が妻問いし発生したこととなっている。
そのような縁で、土佐国が追放された一言主命を受けることとなったのだろうか。

しかし、『日本三大実録』(859年)には、「高鴨阿治須岐宅比古尼神」(従二位勲八等より従一位)、「高鴨神」(正三位より従一位)とは、別個に「葛城一言主神」(正三位勲二等より従二位)とある。
「高鴨神」=「葛城一言主神」ではないようである。再編されて、高鴨神が、高鴨神・葛城一言主神に分離されたのか、元々別の神だったのか、定かではない。

# by yuugurekaka | 2017-12-13 22:00 | 賀茂

■ 賀茂神戸の葛城の賀茂社はどこか?

『出雲風土記』(733年)の意宇郡には、「賀茂神戸」の記載がある。

"賀茂(かも)神戸。郡家の東南三十四里の所にある。所造(あめのした)天下(つくらしし)大神(おおかみ)の御子、阿遅須枳(あじすき)高日子(たかひこ)葛城(かづらき)賀茂(かも)社に鎮座していらっしゃる。この神の神戸である。だから、鴨という。〔神亀三年に字を賀茂と改めた。〕この郷には正倉がある。"(『解説 出雲風土記』島根県古代文化センター[]


この文面だけから読むと、葛城の賀茂社とは、大国主命の御子アジスキタカヒコノミコトを祭った高鴨神社のことでないかと思ってしまう。


金剛山・葛城山

この山の麓に、大和の出雲族ー鴨族の神社は、多く存在する。

御所駅から、鴨都波神社~長柄神社~葛城一言主神社~葛木御歳神社~高鴨神社へと歩いて行った。


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高鴨神社 鳥居  奈良県御所市鴨神1110 

現在の祭神は、阿遅志貴高日子根命(迦毛之大御神)が主祭神で、下照比売命・天稚彦命を配祀している。


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■『新抄格勅符抄』(806年)

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によれば、

高鴨神
 五十三戸 大和二戸 伊与卅戸 天平神護二年符 土佐廿戸 天平神護元年符
鴨神  八十四戸 大和卅八戸 伯耆十八戸 出雲廿八戸
 
鴨神は、出雲国28戸とある。
ちなみに京都左京区の賀茂御祖神社(下鴨社)、賀茂別雷神社(上鴨社)は、

鴨御祖神 廿戸 山城十戸 丹波十戸 天平神護元年九月七日  
若雷神 廿四戸 山城十四戸 丹波十戸              

とある。
806年の時点で、賀茂神戸として出雲と関係があるのは、奈良の「鴨神」である。
この高鴨神が、高鴨神社と考えるのは早合点で、鴨神が、高鴨神社の祭神だったのかもしれない。
鴨神を鴨都波神社 ( 鴨都味波八重事代主命神社)、高鴨神を高鴨神社に比定する説もあるが、どちらがどうなのかよくわからない。
その逆なのかもしれない。

鴨都波神社  奈良県御所市宮前町51
現在の祭神は、積羽八重事代主命・下照姫命で、建御名方命を配祀する。

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『日本三代実録』(901)によれば、高鴨阿治須岐宅比古尼神 従二位勳八等より従一位、高鴨神 正三位より従一位とあり、「高鴨」とは鴨族の祖神の総称をいうもので、『日本三代実録』の時点での神階から察するに、高鴨神社が高鴨阿治須岐宅比古尼神を奉祭する社だったのかもしれない。
鴨神が、事代主命で、アジスキタカヒコ命に代わったのかもしれないし、もともとアジスキタカヒコ命だったのかもしれない。

『出雲風土記』は、事代主命、野見宿禰については全くふれもしていない。しかし、賀茂神戸が、奥出雲でもなく、西出雲でもなく出雲国東部であると考えると、事代主命の方が鴨神として縁があるように思う。

# by yuugurekaka | 2017-12-06 17:53 | 賀茂

■ 延喜式神名帳の記載

式内社とよく言い、いかにここの神社が古くから格式がある神社であるかを示す言葉があるが、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十に記載されている官社である。
ここの神社の記載がさらに頭を混乱させる。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)能義郡にあるはずの野城神社や意多伎神社が意宇郡に記載され、能義郡にある神社は、天穂日命神社だけ載っている。

能義神社 鳥居 島根県安来市能義町366 

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意宇郡 48座(大1座・小47座)の式内社抜粋 
社名           比定社 
野城神社        能義神社  島根県安来市能義町366
同社坐大穴持神社    合祀:能義神社同上
同社坐大穴持御子神社  合祀:能義神社同上
意多伎神社       意多伎神社  島根県安来市飯生町679
         (論)愛宕神社   島根県松江市外中原町54阿羅波比神社境外末社
同社坐御訳神社     意多伎神社  島根県安来市飯生町679

能義郡  1座(小)
社名           比定社 
天穂日命神社      支布佐神社  島根県安来市吉佐町365


和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、承平年間(931年 - 938年)に成立したと言われる。と、なれば①現在の能義神社辺りは、
延喜式神名帳の時代は、意宇郡であり、927年から4年間の間に、能義郡が地域として拡大したと思える。
あるいは②延喜式神名帳に載っている野城神社や意多伎神社は、意宇郡にあり、現在の比定される能義神社や意多伎神社は、能義郡に存在し、意宇郡に現在の比定社とは別の神社があったと思われる。
また、あるいは、③神社の存在する地域は、能義郡であるが、過渡期であり、神社そのものは、意宇郡の管理下にあった。そういう①②③の3説が思い浮かぶ。
こういう経緯を踏まえると、能義郡が、野城大神の名前から由来するという説が怪しくなってくる。

それゆえ「天穂日命神社」の比定を巡って、能義神社は、吉佐村の国津大明神(現 支布佐神社)との間に正徳年間と明治初期の2回にわたり論社争いがあった模様である。(→ ウィキペディア 能義神社 

支布佐神社(きふさじんじゃ)拝殿  島根県安来市吉佐町365  
『日本文徳天皇實録』によれば、仁寿元年(851年)九月丁亥【十八】
青幡佐草壯丁命。御譯命。阿遲須伎高彦根命。與都彦命。速飄別命。天穗日命神等並授從五位下とある。

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■ 『日本三代実録』 「能義神」の記載

『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、延喜元年(901年)に成立した歴史書である。

《卷十四貞觀九年五月二日庚子》○二日庚子。出雲國從五位下能義神。屋神並授從五位上。

《卷二十貞觀十三年十一月十日壬午》○十日壬午。雷電。』授武藏國正五位上勳七等秩神從四位下。從五位下椋神從五位上。飛騨國正五位下水無神正五位上。出雲國正五位上湯神。佐往神並從四位下。五位上能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並正五位下。從五位下斐伊神。智伊神。温沼神。越中國從五位下楯桙神並從五位上。(太字は 私)(八六七)

貞觀9年(867年)に「五位下能義神」、貞觀13年(871年)に「五位上能義神」とある。この「能義神」が、能義神社の「野城大神」か、支布佐神社の「天穂日命」を表わしたものか、あるいは、切川神社の「野見宿禰」なのか、定かではない。


能義神社の境内社に「野美社」がある。「野見社」とは書かずに「野美社」と書かれてある。
これは、「能美」→「野美」ではなかろうか?ちょっと悩ましい表記だ。
        
祭神は、時代によって変わるものである。現実の祭神をもって、歴史を語ることはできない。
ただ、能義郡の地域も、出雲臣の勢力が強かった地域であることは間違いない。
出雲臣といっても、おそらく一系ではなく、何系もあったと思われる。

能義神社 境内社  野美社 

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# by yuugurekaka | 2017-12-03 16:02 | 野城大神

■肥前国の能美郷の由来

因幡国以外の能美郷には、どんな意味があるのか。『肥前国風土記』には、『能美』の由来が書かれている。

 "能美の郷。 郡の役所の東にある 昔、纏向の日代の宮で天下を治めになった天皇(景行天皇)が、行幸になった時に、この里に土蜘蛛が三人いた。兄の名は大白、次兄の名は中白、弟の名は少白である。この人らは、とりでを造って隠れ住み、降服を承知しなかった。そのとき、天皇の従者、紀の直らの祖先の穉日子(わかひこ)を遣わして、罰し全滅させようとなさった。それで大白ら三人は、ただ、頭を地につけて、自分達の罪を述べて、ともに命乞いをした。これによって能美の郷という。"(中村啓信 監修・訳注『風土記 下 』角川ソフィア文庫)

纒向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)  奈良県桜井市

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それで肝心の能美であるが、「頭を地につけて」という所が、「叩頭(のみ)て」で、「能美」の由来だそうだ。
一般的には叩頭(こうとう)と読み、高度な忠誠と尊敬の念を表す礼儀作法の儀礼のようだ。

「肥前国風土記」の他の地名由来を見ると、景行天皇の巡行ー土蜘蛛の制圧というのが多いのに気づく。「出雲風土記」では、景行天皇に由来するのは、出雲郡建部郷だけのように思う。
土蜘蛛は、朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。出雲族も、崇神ー垂仁天皇時代においては、似たような立場であると思う。
もしや、国の盟主から滅ぼされて、ついには頭を下げて、忠臣になるという、そういう意味あいが、「のみ」にあるのかな?などと思いが浮かんだ。


# by yuugurekaka | 2017-11-29 22:50 | 野城大神

■切川神社の御由緒

『神国島根』(島根県神社庁 発行 昭和56年4月29日発行)の切川神社の御由緒を読んでいて、おやっと思えるところがあった。
「もと能美神社と称し祭神は野見宿禰命菅原道真公の二神なり。」「此の辺地名を天神原と申して野見宿禰命の霊所と言い伝う。昔御領地にて能義郡と言う説古書に見えたり。

切川神社(きりかわじんじゃ) 島根県安来市切川町1150番 
主祭神 野見宿禰命・菅原道真
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これだけの文章だと、「御領地」は、だれの御領地(直轄地)と解するかわからないが、文書の流れから考えると野見宿禰の御領地で、野見郡→能義郡となったのではないかと、思える。

切川神社本殿

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『出雲鍬』(18世紀中頃)の能儀郡の箇所で「能儀郡ト云ハ 或書二能美郡トカケリ、予按二義ト美トハ同内相通ナレハニヤ、但両字の形ヨク相似タレハ後写ノ誤カ、然共延喜式ニモ須カ和名抄ニモ能義郡ト書タリ、去ハ義ノ字二シタカハンモノ也、古者意宇郡ノ中也ト見タリ」
また、『雲陽誌 巻之四』(1717年)には、「能義郡 或書に能美之郡に作、義と美と相通なれはにや、按に兩字の形よく相似たれは後寫のあやまりならむか」「古老相傳松井村に野城明神の社あり、是をもつて郡の名とせり」

つまり、能美郡(のみぐん)は、「のぎぐん」とも読む、「美」と「義」の両方の字は、似ている、能義は写し間違いなのかとの説もある。また、古老の伝承では、能義神社の野城大神(のきのおおかみ)から、のぎぐんになったということとも。

『和名類聚抄』の郡名の記載

平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の能義郡記載の箇所を見ると、出雲国の郡名のみ表記のところには、「能義郡」と記載してあり、読みなのか?小さく「乃木」と書かれてある。ああ やっぱり能義郡なのかなと思いきや、郷名記載の場所には、「能美郡」と書かれてある。ええっ? 国立国会図書館デジタルコレクション 和名抄
四巻第七にはこのようになっている。

能美郡

  舎代 安來 楯縫 口縫 屋代

  山國 母理 野城 賀茂 神戸


郷名に「野城郷」がある。それが郡名の由来なら、郡名は「野城郡」のはずだと思う。なぜならば、「出雲郡」「飯石郡」には、郷名にそれぞれ「出雲郷」「飯石郷」がある。郡名と名を違う漢字で書く必要もない。おそらく別の意味があったのだろうと思う。


出雲

  建部 漆沼 河内 出雲 許筑

  伊勢 美談 宇賀

飯石

  能石 三屋 草原 飯石 多禰

  田井 須佐 波多 


■各地の能美郡・能美郷

能美郡は、出雲国だけではなく、石川県南部の加賀国にもある。加賀国は、弘仁14年(823年)に越前国から分離したものだ。

能美郡

  野身郷・加美郷・也万加美郷・也万之多郷・兎橋郷


ここも野身郷から由来して能美郡となったとする説があるが、はたしてそうなのであろうか。

ここの野身郷にしても能美郡にしても、野見宿禰に関係しているとは式内社の祭神からもどうも思えない。


他に、この「能美」の漢字を当てた郷名が古代地名に存在する。   


因幡国高草郡能美郷   現 鳥取県    

安芸国豊田郡能美郷   現 広島県

肥前国藤津郡能美郷   現 佐賀県


それで、野見宿禰に由来しているかと調べると、確認できるのは式内社大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)が存在する因幡国高草郡能美郷のみである。だから、ここ出雲国能美郡が、野見宿禰に由来しているという説があっても不思議はないと思うのである。


# by yuugurekaka | 2017-11-19 08:26 | 野城大神

■野城の大神

安来市の能義神社(のきじんじゃ)であるが、出雲路幸神社以上に、謎の神社である。
そもそもの能義神社の祭神、野城大神という出雲国四大神(所造天下大神・熊野大神・佐太大神・野城大神)の一柱であるが、どういう神なのかはっきりしない。旧能義郡だけではなく、現在の松江市市街地の西部の野白(のしら)神社、野代神社などの、「野白」「乃白」「乃木」の地名もあり、古は、おそらく「野城大神」(のきのおおかみ)を祭っていたのだろう。当然、現在の神社の祭神は、猿田彦命であったり、もともとの祭神とは違う。

旧能義郡の安来市 能義神社の現在の祭神は、天穂日命である。
しかし、昔からずっとそうかと言えば、違うようである。江戸後期の『出雲神社巡拝記』には、「たかみむすび命」とある。むむっ、出雲路幸神社の宮所は、元は天神社で、菅原天神ではなく、少彦名命を祭っていたという話だから、その父神ということで、高皇産霊尊なんだろうか?

また、『出雲鍬』(18世紀中頃)には、〝出雲風土記鈔曰、大穴持命ト記セリ、俗伝二曰、此社野見宿祢ト云人アリ〟と、あり、表向き天穂日命であるが、実にいろいろな説がある。

能義神社本殿  島根県安来市能義町366

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富家伝承本『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、野城大神は、サイノカミ三神のうちの女神(つまり幸姫)というらしい。
となれば、幸姫に由来する場所に、「のしろ」あるいは「のき」の類の地名があっても不思議はない。

出雲と石見の境界に三瓶山という山がある。出雲国風土記では「佐比賣山」と云う女神山である。いわゆる幸姫だ。だとしたら、三瓶山の周りに、野城に由来する地名があるのではないか?と、調べると、「野城」(のじろ)という地名があった。

日御碕方面から見た三瓶山  

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が、しかし、この「野城」という地名は、明治8年(1875年)、円城寺村・市野原村が合併して野城村となったものである。たいへんがっかりしたが、気を取り直して、『角川日本地名辞典』を見ると、ここの合併して発生した「野城」とは別に、中世に「野城」といった地名があったと書かれていた。


# by yuugurekaka | 2017-11-12 08:00 | 野城大神

■ どこの鬼門にあたるか 

京都の出雲路幸神社は、京の御所の鬼門封じということだった。出雲国の出雲路幸神社の南西はどこか?と考えると・・・。
あっ 月山 富田城(とだじょう)がある。
中世の出雲国の中心は、現在の松江城ではなく広瀬町の富田城なのだ。

富田城跡のある月山 

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もしかしたら、狭井の社は、富田城の鬼門の守りとして、出雲路幸神社として、遷宮されたのかしら。
まあ 想像でしかない。
飯梨川自体が、北東に流れているので、能義神社も概ね北東である。
たんに宗教上の意味だけでなく、戦国時代には寺社が、急きょ本陣や宿営地となる。そういう実体上の守りの意味もあったという。

■ 京都の賀茂神社

出雲路幸神社の東側の神社を見ると、京都由来の神社が多いことに気付く。安来町の賀茂神社、赤崎町の貴布祢神社、利弘町の賀茂神社などである。

グーグルアースの地図

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貴布祢神社であるが、ご由緒によれば、「醍醐帝の御世延喜二〇年、山城国愛宕郡より後背の足引山に勧請」とある。延喜二〇年とは、920年であり、平安時代である。安来の賀茂神社は、「宝亀九年この地の人藤原実重・元重なるものが供物として雲州の物を度々献上して、勧請した」とあり、これは778年であり、もっと古い。利弘町の賀茂神社については「白鳳年中に国中天災地変続発して止まず、平治の為に勧請」とあり、白鳳時代となると7世紀後半から8世紀初めで、さらに古い。

賀茂神社鳥居  島根県安来市安来町安来541 
祭神は、別雷神、神日本磐余彦命
 
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和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)は、平安時代中期の出雲国「能美郡」(美は義の写し間違いというのが通説であるが・・・)の郷名に「賀茂郷」と「神戸郷」が別々に載っているところを考えると、賀茂郷はおそらく、京都の賀茂社(安来町宮内の糺神社との関連もあるので たぶん下鴨社)であって、神戸郷は、出雲風土記に見られる賀茂神戸(奈良の鴨社ー鴨都波神社あるいは高鴨神社と云われている)だろう。京都の鴨と奈良の鴨で、頭の中が混乱しそうである。 (訂正しました。→紫の字)

賀茂神社 拝殿  島根県安来市利弘町521 
主祭神は、神日本磐余彦命

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■ 意多伎神社(おたきじんじゃ)

能義神社からすぐ東に行った所に、その神社はある。出雲風土記にも記載のある古社だ。創立年代は、不詳であり、勧請したものとは違う神社で、京都とはなんの関係もない神社だと思っていた。しかし、この「おたき」の読みは、どこか聞き覚えのあると思っていたが、京都の出雲郷があるのは、愛宕郡(おたぎぐん)というところである。愛宕山(あたごやま)から、由来して、愛宕郡となったと思う。でも、愛宕(あたご)というのは、丹波国の阿多古神社(亀岡市の愛宕神社)の阿当護神を勧請して、後から愛宕になったようにも思われる。(→ウィキペディア 愛宕権現 

もしや、愛宕郡となる前は、意多伎郡でなかったのだろうか? 
イザナミと火の軻遇突智を祭っており、火の神を生んだために母親であるイザナミを亡くならせたということで「仇子」(あたご)とよばれ愛宕となったとする説(本居宣長『古事記伝』)もあるが、よくわからない。

意多伎神社 鳥居   島根県安来市飯生町679

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ここの「おたき」であるが、意多伎神社の御由緒によれば、「意多伎は於多倍(おたへ)で、食物を多布留(たふる)の義であり、これも穀物に関連する意味であろう。」(『神国島根』)ということである。また、「オタベ」は古語で
物を食べるという意味とも『平成祭データ』に書かれている。となれば、愛宕郡もそういう食べ物のことに由来したのかもしれない。

出雲国風土記(733年)に「意陀支社」が二社あり、ここの地域の地名由来が書かれている。

飯梨郷(いいなしのさと)
〝郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故に飯成(いいなし)と云う。神亀三年(西暦726年)に字を飯梨と改む。

ここの祭神『大国魂命』であるが、『大国主命』と名前が似ているので、大国主命とされることが多いが、在地の神なのに「天降りましし時」というのが、どうもなじまない。それに出雲風土記では、大国主命のことを「所造天下大神命」としていて、ここは違うと思う。
私は大国魂命』とは、京都府宮津市の籠神社祭神、天火明命だと思う。『日本書紀』崇神天皇のところで、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にしたところ、うまくいったという記述、つまりは子孫を祭主にしたということだ。市磯長尾市は、倭直の遠祖である。古代豪族 海部氏がこの辺りにもいたのだろうか?

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)は、平安時代中期の出雲国「能美郡」(美は義の写し間違いというのが通説であるが・・・)の郷名に「賀茂郷」と「神戸郷」が別々に載っている。この神戸が、ここの大国魂命=大和神の神戸(出雲国五十戸)という可能性も高い。

意多伎神社 拝殿

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ここの神社は狛犬ではなくて、おいなりさんだ。ここの地名は現在飯生(イナリ)であるが、奈良時代に「飯成」と書かれてたのでもともと、稲荷神社の「いなり」の関係があったのではないかと思われる。稲荷神社は、どこの神社の境内でよく見ることができ、後から奉祭されたものが多いが、その本源地である京都の伏見稲荷大社の創建は、かなり古い。深草の秦氏族が、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、伊奈利社(現・伏見稲荷大社)を建てたということになっているが、『日本書紀』欽明天皇が即位(539年?または531年?)するまえに山背国紀伊郡深草里の秦の大津父の話が出ているので、秦氏の奉祭した神社はもっと古くからあったのかもしれない。→ウィキペディア 稲荷神 

稲荷神が、食物神の宇迦之御魂神と同一視されたとも云われているが、出雲風土記から見るに奈良時代には既に農業の神と食物の神との習合が始まっていたように見える。あれこれ考えると、京都一帯に地盤をもっていた秦氏との関連も考えられる。

さて、本題のなぜ京都の出雲路幸神社と同名の神社があるのかとの疑問であるが、この地域がかなり古い時代より、京都と関連があった場所であったことが一番考えられる理由である。サイノカミの社というのは全国にあり、出雲路幸神社の神徳というか、縁結びと鬼門封じ(封じというよりは、幽界と現世の架け橋の神のような気がする)は、出雲路幸神社だけでなく、サイノカミの社の特徴だと思われる。
そういえば、出雲大社の大国主命が、縁結びの神と同時に、「幽冥主宰大神 」(かくりごとしろしめすおおかみ)とも呼ばれるのは、サイノカミの神徳を体現しているのかもしれない。


# by yuugurekaka | 2017-11-05 19:38 | 塞の神