■「因幡の白兎」というが…

『古事記』には「稲羽の素兎」となっており、そもそもが毛の色に言及していません。そもそも日

本在来の「二ホンノウサギ」は、褐色等の毛を有しており、積雪地帯では体毛が白に変化するそう

です。→ ウィキペディア ニホンノウサギ

ちなみに、隠岐島には「オキノウサギ」という固有種がいます。オキノウサギは白くならないと書

かれていましたが、あるブログでは、オキノウサギも白く生え変わったとの記事も見受けられます。


では、素兎(しろうさぎ)とは何か。本居宣長は、素はもしかしたら裸(あかはだ)の意味か…な

どと考察しています。


伊吹山のニホンノウサギ (画像出典→ ウィキペディア ニホンノウサギより)

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■ 古伝 宇佐家の伝承 


ウサギと鰐の話なので、菟神を奉祭する宇佐家の伝承本を読んでみようと、アマゾンで宇佐公康著

『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』を注文しましたが、品切れの様子で、いつまで経っても送られ

てこずあきらめていましたが、県立図書館にあることがわかり、昨年末から借りて読んでいます。


私は、菟狹族というのは九州の北東部の豊国周辺にばかり分布しているとばかり思っていましたが

本を読んでみて、中心は山陽の方だと書かれており驚きました。そして、元々は隠岐島にいたけれ

ど、和邇族との取引で、財産や領地を失ない(身ぐるみはがれて)、大国主命に与えられた因幡国

八上の地で再出発したといいます。以下、『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』の引用です。


「稲羽」は因幡国で、現在の鳥取県の東半分の旧国名である。山陰道八ヵ国の一つで、因州ともいっ
 た。今の鳥取市と、岩美・八頭・気高の三郡が、この国にふくまれていた。古代の住民、縄文時代か
 ら弥生時代には、日本海に面した海岸地域に住み、三世紀の中頃から、六・七世紀ごろまで古墳時代
 には、その周辺の奥地に移り住んでいた。したがって、広い地域にわたって、条里制の遺構を残して
 いる。…中略…
 このような条里遺構を残している因幡国は、隣国の伯耆国(鳥取県の西半分)とともに、古くから、
 豪族の出雲族が、統治して開けていて、その統治下に、菟狹族や和邇族が生活していた。和邇族が、
 その祖神をワニ神として祀っていたように、菟狹族は、ウサ神を氏神として祀っていた。『古事記』
 に見える「稲羽の素菟」とは、実はこの菟狹族の族長をさしていったのであって、動物の白ウサギで
 はない。〟 

〝 白ウサギが、ワニザメに皮をはがれて、赤裸になったという伝説は、経済上の取引で、菟狹族が和
 邇族に、玄人くさい駆引を使って失敗し、和邇族から資産を押えられ、全部没収されて、赤裸になっ
 てしまったことを物語るものである。〟

〝この隠岐諸島に、菟狹族は石器時代から住みついて、自給自足体制による農漁業をいとなんでいたこ
 とは、島後の西郷町から、石器時代の遺物が発見されたことによって実証される。そして、その生活
 の九○%は、アマ(海士)による漁労・採取であったことは、菟狹族はウサ神、すなわち、ツキヨミ
 ノミコト(月読尊)をアマ(天)の神とするアマ(海)族であるという伝承によっても明らかである。〟

〝 菟狹族は、この教示を実行にうつし、隠岐諸島の領有権はもとより、物品貨幣の全財産の所有権を
 和邇族に移譲して、長年住みなれた島を去った。そして、オオクニヌシノミコトが、菟狹族に無償で
 与えた因幡国八上の地に移住して、この地を開拓して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・
 北九州・東九州地方にまで発展し、古の菟狹国をつくって繁栄するに至った。〟
           
                 (宇佐公康著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 木耳社)

■ 隠岐島と伯耆

宇佐家伝承を念頭において隠岐島と伯耆を考えてみようと思います。
まずは、隠岐の国造はだれであったのか。

意岐国造(おきのくにのみやつこ)は、国造本紀(先代旧事本紀)によれば、応神天皇(第15代)の
時代、孝昭天皇(観松彦香殖稲命、みまつひこかえしね)の弟とも言われる観松彦伊呂止命(みまつ
ひこいろとのみこと、観松彦色止)の5世孫である十挨彦命(とおえひこのみこと)を国造に定めた
ことに始まるとされています。

孝昭天皇といえば、第五代天皇で、大和葛城の出雲族と縁の深い天皇です。第一皇子が天足彦国押人
命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)で、和邇氏の祖とも云われる皇子です。
→ ウィキペディア 孝昭天皇 あながち、和邇族と無関係ではないと思われます。

ちなみに隠岐の国造は、大国主命の後裔を称する意岐(隠岐・億伎)氏が世襲して、古くから隠岐国
の玉若酢神社の神職を務めているという。

さて、宇佐家が関係した地域であれば、それらしい地名「豊」とかがあるはずです。そういう目で、
隠岐の地名を探しますと、島前海士町に「豊田」という地名がありました。江戸時代は、豊田村だっ
たようですが、ただ平安時代の『和名類聚抄』を見ると、隠岐の4郡12郷の地名にはありません。
ここ豊田の地の神社は、「奈伎良比賣神社(なぎらひめじんじゃ)」という神社ですが、式内社の
名神大社となっています。

隠岐郡海士町豊田 周辺の国土地理院地図

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ここの伝承によれば、往昔伊予国から船出していた奈伎良姫は、日本海に入った折、暴風雨にあい、
途方にくれていたとき、遥か遠くに見える一点の灯火を頼りに進み、この豊田の地に、上陸し永住
したといいます。

伊予国から渡来した神です。宇佐族の系統の神とも思えますし、和邇族の系統の名前のようにも思
えます。何も証拠はありません。
なぜだか伯耆にも「なぎら」の名が同じ「奈喜良(なぎら)神社」があります。祭神は、あいにく
奈伎良姫ではなくて、大国主命です。まあ祭神は、変わるものです。

それと伯耆に「由良(ゆら)」という地名がありますが、島根県隠岐郡西ノ島町浦郷にある「由良
比女神社」(式内社の名神大社)と関係がないのでしょうか。由良比女は、元名「和多須神」とも
云われており、海童神あるいは須世理比売命ではないかと云われていますが、豊玉姫との説もあり
す。『古事記』では、豊玉姫は海神大綿津見神の娘で、出産の際、八尋和邇(やえひろわに)に
ります。

鳥取県(因幡・伯耆)には、菟狹族、和邇族が近接して分布しているようです。隠岐の神様も、ど
っちの系統の神かよくわかりません。おそらく長い歴史の中で、敵であったり味方であったり、ま
た同族化したり、いろいろなことがあってわかりにくいのだと思います。

奈喜良(なぎら)神社 鳥取県米子市奈喜良356番 
現在の祭神は、大国主命、天照大御神です。天照大御神は明治元年神社改正の際、合祀されたという。

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# by yuugurekaka | 2017-03-25 22:01 | 因幡の素兎

江戸時代前期の儒者、貝原好古(かいばら よしふる)の『和爾雅』(1694年)には、伯耆 

素菟(うさぎ)大明神(だいみょうじんとの記載があります。

古事記には、『稲羽の素兎』の話として、載っていますが、伯耆国の束積郷(平安時代には既に

地名として存在しています。この束積とは出雲積、安積の「積」と何か関係があろうか?)

には、「伯耆の素兎」の伝承が残っています。


中山神社 鳥居   鳥取県鳥取県西伯郡大山町束積8番


『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)によれば、往昔 大森大明神と称し、明治元年

明治元年十月 束積社と改め、同五年十二月郷社に列せられ、同六年 束積神社と改称、同三十八年

九月二十六日中山神社と改称とあります。

祭神は、大己貴命、田心姫命、稲背脛命、倉稲魂命、御祖尊、稚産霊命、大山祇命、保食神、白兎

神とありました。


中山神社 拝殿   鳥取県鳥取県西伯郡大山町束積8番

   

      

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中山神社前の「伯耆の白兎」の説明板


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神社の前の説明板に「伯耆の白兎」の伝承が書かれています。


“束積に住む白兎が川をのぼる鱒の背を借り川を往き来していたが、過って鱒の背を踏みはずし溺れた。

 さいわい流れ木につかまり隠岐島まで流された。帰郷の念から鰐をだまし、皮を剥がれたところを大

 国主命に助けられた。

 「伯耆の白兎」の話は「因幡の白兎」と共に『古事記伝』で語られている。束積に帰って一休みした

 岩が「兎の腰掛け岩」として残っているほか、流れ木に助けられた川を「木の枝川」「甲川」と呼ぶ

 ようになった。

  村人は白兎の愛郷の念を偲び元の遊び場「古屋敷ヶ平ル」に社を建て「素菟神社」とした。この社

 は皮膚病(疱瘡)の守り神となり、平癒の節は笠を納めるのを例とし参拝者があとを絶たなかった。

 明治初年社が野火で焼失し、今は中山神社境内に再建され長く白兎の心情を保っている。

                            平成二年三月

                                 大山町教育委員会    

中山神社西参道の道祖神(サイの神)
伯耆地方では、サイの神にわらで作られた馬を供えるらしい。

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西側の参道に道祖神が祭られていました。素菟神の伝承地だから、藁のウサギかなと、単純に思っ
てしまいましたが、ウサギにしては足が長くてどうも違う気がします。
図書館に行って調べてみますと、伯耆地方には藁で作った馬を供える風習があるようです。
下記の引用は、中山町束積ではなくて、中山町岡地区の事例です。サイノカミ(幸の神)は、縁結
びの神様ということは聞いたことがありますが、耳の病気の神様という側面もあるようです。

“ 伯耆西伯郡中山町にはサイの神が少なくとも三十ヶ所はある。その中には神社の境内にあるものも
 少なくないが、これは道路工事その他のため遷されたものであって、元はやはり村境とか峠とかにあ
 ったものだという。たとえば岡地区では現在稲荷神社の境内にあるが、自然石そのままのものは少な
 く、大抵がその表面に男女の双体像を彫り出したり、また線刻したりしたものになっている。岡地区
 のも男女の双体像である。機能は一応耳の病の神だとなっているが、それよりもこの地方では縁結び
 の神という所が多い。しかしまた祭りには子供が参るものともしているのではっきりといわれないが、
 そこにはやはり子供の守り神という考えもあったことがしのばれる。…中略…
  十五日になると子供たちが参ってきた。子供のある家では子供の数ほど藁馬をつくり、これに団子
 二つ三つ苞に入れて負わせ、それを持って参らせる。…後略… ”
                    (『山陰の祭祀伝承』山陰民俗学会 平成九年 発行 )

さて、伯耆のうさぎが、鱒の背中を踏み外し、溺れそうなところをなんとか流れてくる木の枝をつ
かんで助かったという甲川(きのえがわ)を見に行きました。
木の枝川が、甲川となったのか、どうかわかりませんが、陰陽五行から木の枝(きのえ)→木の兄
(え→甲(きのえ)となったんだろうか。

甲川 (きのえがわ)
木の枝が、「甲」(きのえ)に転化したのか?

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そして、木の枝につかまって、日本海に面した甲川の河口に行ってみました。「伯耆の素兎」が、

ここから隠岐島に流れ着いたといいます。


甲川河口付近 
向こう側は日本海。

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この束積の甲川から、地図で見ますと、確かに直線的に隠岐島があります。マーカーした所が、束

積の中山神社があるところです。


“さて其の束積のあたりに、木の江川とて大キナル河ありて、其川の海に落る処、鹽津浦とて、隠岐
 知夫里湊その向ひに當れり。”(本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店)

                             

GOOGLEマップの地図 


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# by yuugurekaka | 2017-03-20 23:35 | 因幡の素兎

■ 4弦?の琴 

4突起の琴 一式(弥生時代 中期後葉)

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青谷上寺地遺跡展示館にはいくつかの弥生時代の琴が展示してあった。下の写真のように〝ほぼ完全
な形
で出土〟〝天板には日・月・星を表わすように共鳴の孔が開けられている〟と書かれていた。
突起が4つある。一つの突起に一本の弦を括り付けると仮定すると4弦の琴であろうか。

家に帰って、インターネットで調べたところ、4突起=4弦とは言えないようで様々な説があるそう
だ。たとえば、一
つの突起に、2本の糸を回すこともできるし、そうなると8弦の琴となる。また、
突起ではなく、凹
部の凹んだところに弦を通したと仮定すると、3弦の琴になる。

琴そのものの起源はかなり古いようで、縄文時代の琴が青森県の八戸で、3,000年前の琴が出土してい
る。その使い方がYOUTUBEで投稿されていたが、2突起に各々弦を括り付けて2弦あるいは、1突起に2
弦の糸で4弦の琴とも想定される。

どんな糸を張ったのだろう。中国の古琴のように、絹糸だったのだろうか。
絹糸は、九州の
吉野ヶ里遺跡の絹織物の出土から、弥生時代には既にあったのである。

この箱型の琴、共鳴槽付きと云われるそうだが、ギターの箱のように音量の増幅を目的したと思える。
弦を突起に括り付けたとすると、その弦を集弦
孔に集めて(星形あるいは月型のところの穴?)、糸
引っ張ったようだ。

このままでは天板と弦がくっついているのでよく鳴らないわけなので、弦を浮かせるためのブリッジ
が必要となる。( 現代の筝でいえば、雲角・《
》角 )
それと、古墳時代の出土した琴には、琴柱(ことじ)という弦を支え音の高低を調節するものも出土
しているが、弥生時代にはどのように調律していたのだろうか

ただ素朴に、手で引っ張って音を整えていたであろうと想像しまいがちだが、実際は琴柱が合った方
が調律しやすいのではないかと思う。
琴柱がいっしょに出土していないので、そういうものは無かっ
たと考えるのは簡単だけれども、じゃあ
琴柱がないときは、どのようにしていたのだろうかというこ
とが疑問だ。

1弦、2弦という少ない弦だと、調律なるものはそれほど必要はないのかもしれないが、4弦、6弦
7弦と弦を増やすのなら、弦が同音を出すよりも、違う音階の音を出していたのだと想像される。
となれば、音の調整は当然やっていたと思われるので、どのようにやっていたのかが気になる。

■ 様々な弦数の琴 

上記の画像の琴のだけ出土していれば、この地域の琴は4弦(または3弦あるいは8弦)と思いがちであ
るが、展示されている他の琴の天板を見ると、4突起ではなくて、6突起だった。

天板に魚の絵が描かれた6突起の天板(弥生時代 中期後葉)

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また、青谷上寺地遺跡出土データベースを見れば、7突起の琴板があることがわかる。
この地域によって、琴の弦数の決まりごとはそもそもなかったのかなあと、思える。

多弦であれば、やっぱり調律が重要であって、ポロロ…ンとつま弾いて、美しい音が出たのではない
かと想像する。

琴は、琴を弾く埴輪がほとんど男性なので、祭祀では首長層の男性が弾く役割を担ったと云われてい
る。男性が琴を弾き、女性が巫女として神がかり託宣したのかな。
祭祀場は、山の磐座の前とか川辺等の水辺だと云われているが、ここの青谷の地域はどこが祭祀場だ
ったのか。

琴弾山神社 島根県飯石郡飯南町佐見 
出雲風土記に この山の峰に窟があり、大国主命の御琴があると書かれている。

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# by yuugurekaka | 2017-03-13 12:00 | 弥生時代の遺跡

因幡と和邇氏

■ 因幡国造


因幡の国造は、どの氏族だったか?

『国造本紀』によれば成務天皇の御世に彦坐王の子・彦多都彦命が初めて国造に任じられたとある。

 ウィキペディア 因幡氏

彦坐王とくれば、和邇氏と関係が無いとは思えない。

彦坐王(ひこいますのおう)は、第9代開化天皇の第三皇子であり、和邇氏遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子だからある。→ ウィキペディア 彦坐王

つまり、彦坐王の母族は和邇氏ということだ。

また、彦坐王の後裔として、ホムチワケ伝承に関係する日下部氏がいる。日下部氏は、出雲国神門郡にも土着したと思われる。


■ 和邇氏の系譜


1)さて、この和邇氏であるが、「新撰姓氏録」(815年)を見ると

大和国 神別 地祇に 和仁古 大国主六世孫 阿太賀田須命之後也

とある。

出雲族の系譜というわけである。

この「阿太賀田須命」が、宗像氏の「吾田片隅命」が同じかどうかわからないが

宗像氏も姓氏録で見ると

右京  神別 地祇 宗形朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也

河内国 神別 地祇 宗形君  大国主命六世孫吾田片隅命之後也 

と、あり宗像氏と半ば同族のように見える。


2) しかし、この阿田賀田須命だが、先代旧事本紀(地祇本紀)では、

都味歯八重事代主神の八世孫、阿田賀田須命、和迩君たちの祖 

と、記載されている。

また記紀では、第5代 孝昭天皇の御子 天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)が、和邇氏の始祖とされている。
姓氏録では、皇別で「天足彦国押人命」「彦姥津命」の系譜が見える。以下 主なもの。

右京皇別 和迩部天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也 

山城国 皇別和迩部 小野朝臣同祖天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後 

摂津国 皇別和迩部 大春日朝臣同祖天足彦国忍人命之後也


■ 太陽信仰を持つ鍛冶集団説

ところで、「2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする」説を調べてみた。
山尾幸久著『日本古代王権形成史論』(1983年)に載っていた。以下 本の結論部分の抜粋。

“以上のように、ワニという日本語はもともと、朝鮮語のサヒに対応する意味(刀や鉏)を持っていたのであり、それゆえサヒから生じたことばサメにも対応したのであろう。したがって私見は次のごとく爬虫類の鰐の称呼に起源する南島語系の古い日本語ワニは、もとは海洋の主または支配者と信じられた鋭利な牙歯を持つ恐るべき神や、そのような歯で人を食う恐ろしい魚のことであったが、やがて鋭利な刀剣や鉏鋤が代表する威力ある鍛冶物をも意味するようになり、のちに朝鮮語との対応関係が習慣的に固定して鍛冶物のワニはサヒ、魚のワニはサメとも呼ぶようになった。

 してみると族称のワニは、鰐や鮫のトーテムとして理解しなくても、鍛冶師という社会的職能で解釈しうることになる。 

 なお角川源義「まぼろしの豪族和邇氏」(『日本文学の歴史1』一九六七年、角川書店)は、日子坐王を和邇氏が祭る日の神と見、同笵鏡の配布を日の神信仰の伝播とし、和邇の乙女が隠れた岡を「金鉏岡」という(雄略記)ことから、和邇氏が勢力下に〝製鉄工場〟をもっていたと想定している。論拠は異なるが、私見はこれに近い。” (山尾幸久著『日本古代王権形成史論』岩波書店  134頁)


# by yuugurekaka | 2017-02-26 08:00 | 因幡の素兎

蛇のような線の絵が描かれた差物箱(弥生時代中期後葉)

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青谷上寺地遺跡展示館で土器や木工品に様々な生物が描かれているのを見た。
弥生時代は、蛇はまだ嫌われる存在ではなく神様だったのだろう。

様々な線が刻まれた

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上の長い線刻板は、船が描かれていると説明板に書かれていた。
右下の琴の天板や左下の指物板には、魚が描かれていた。
琴は6弦のようだ。魚というより、サメのようにも見えた。ここでの出土品で最も多いモチーフが
魚だそうだ。

サメと思われる絵が描かれた土器(弥生時代中期後葉)

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動物線刻琴側板(弥生時代中期後葉)

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3種類の動物が5匹描かれている。右側の角が巻いている動物は、羊との説があるそうだ。日本に
は当時はいなかったが中国にはいたようである。
しかし、うさぎの絵画が見当たらない。ここが因幡の国だから、うさぎの絵があってもよさそうな
気がして、展示してあるものを探したがそれらしい絵は無かった。

弥生時代の銅剣の絵に刻まれたサメの絵 鳥取県立博物館所蔵(安富コレクション)
銅剣の写真が展示してあった。

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どこで出土したか不明の弥生時代の銅剣であるが、サメの絵が一筆書きされた特徴から青谷上寺地
遺跡や周辺から出土した可能性が高いとのこと。
詳しくは→ 毎日新聞 弥生時代の銅剣 サメの絵画 サメ信仰、裏付け 地域色強い祭祀存在か /鳥取

銅剣も、琴も当時は祭祀の道具であったわけだし、それにサメが刻まれているとなると、サメは青
谷周辺に住んでいた氏族のトーテムだったのであろうか。
因幡の白兎のワニは、実は鮫であるという説が強いが、もしや、和邇氏の一族が住んでいたのか?
古代氏族の和邇一族は、大和国添上郡和邇が本拠地でそんなところに居ないという反論が聞こえて
きそうだが、2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説もあるよう
だ。→ ウィキペディア 和珥氏 



# by yuugurekaka | 2017-02-23 22:27 | 弥生時代の遺跡

鳥取市の青谷上寺地遺跡(あおや かみじちいせき)のある遺跡展示館で弥生の古代米(朝紫という
名前の黒米)をいただいた。
ここの遺跡で出土した黒い米と、この「古代米」との関連性について、ほぼ同じ品種なのか後から
疑問になったけれど聞きそびれてしまった。
ちなみに「古代米」の定義は、→ ウィキペディア 古代米

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白米1合に小さじ1杯の黒米を入れて炊くように書いてあったが、うちの家には玄米しかないので、
玄米3合に小袋全部の黒米を入れて炊いた。
炊いたご飯は、赤飯みたいな色だ。黒米だけを箸で取って食べたら、味も小豆の皮のような味がし
た。(違うかも。)
玄米も味わい深いけれど、黒米を入れたら、さらに味わい深い。


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さて、これは現代人の食べ方であるが、弥生時代の人達はこういう食べ方をしていなかった。
青谷上寺地遺跡から弥生時代中期の木製のさじが数多く出土しており、蒸すのではなく、甕形土器
で水を加えて煮て、さじで食べられたのではないかと云われている。
蒸すための調理器具-甑(こしき)の出土は、まだ後代のようだ。(→ウィキペディア 甑 

青谷上寺地遺跡から出土した弥生時代中期ごろの米であるが、分析によれば、中国から直接日本に
伝わったものと、朝鮮半島をとおって日本に伝わったものが混ざっていたそうだ。

参考 ➡ 弥生ミュージアム  第四章 弥生時代の生活 2.食料
   ➡ 鳥取県埋蔵文化財センター 「弥生時代の米作り」



# by yuugurekaka | 2017-02-22 12:55 | 古代遺跡

■ 物部神社からどこを通って出雲へ 


富家伝承本によれば、物部・豊連合軍は、物部神社を本陣として、小田を通り、神門水海の東岸で、

真幸が丘公園北方の多聞院辺りにあった西出雲の王宮を攻めていったそうです。

しかし、陸路で行ったのか海路で行ったのか何も記述がありませんので、様々な神社の祭神や、(旧)

市町村誌を調べて、自分なりに推理してみたいと思います。

推理というのは偉そうで、想像といったほうがいいのかもしれません。


(旧)市町村誌や神社の由緒をいろいろと調べて見ましたが、

物部・豊軍が、西出雲の王都を攻め滅ぼしたような伝承は一切発見できませんでした。

それは、記紀が「国譲り」で、出雲の方が自主的に国を譲ったということが書かれているわけですか

ら、それに反するような話は、許されず、まあ書かれていなくて当然と思われます。


しかし、司馬遼太郎氏が、物部氏が出雲大社の「兵器庫」の鍵を管理していたという話は、『簸川郡

誌』(1940年)という書物に書かれていました。


物部神社を本陣として出立して、どの道を通ったのだろうか?

大田市から出雲市までというのは、仙山峠などあり、なかなか険しい道です。一番たやすいのが、海

岸へ出て、船で出雲平野を目指す道です。

そうなると、大田市の波根港だろうか。波根港には、立神岩、立神島なる景勝地があります。

立神(たてがみ)は、海の遥かかなたから神霊が依りくる意味らしいのですが、

逆に神が出立したところではないのかしらなどと、想像してみました。まあ、そういう伝承もありま

せん。


しかし、出雲と石見という行政区は、かなり後代のことなので、石見と云っても出雲勢力の中を堂々

と行くのはかなり危険な道、物部神社がかなり大田市の南方なので、山間の谷川の険しい道をたどっ

て、田儀港まで出て、船に乗ったとも思えます。

田儀には、「手引ヶ浦」の伝承があります。もしや、物部氏の手引き?と思いきや、多伎芸神社の祭

神、大国主命の娘ー阿陀加夜怒志多伎吉比売命の伝説です。以下『田儀村史』(昭和36年、多伎村

役場発行)からの要約です。

  

  姫が、ある朝、父の杵築の宮に行こうとすると、海神が出立を惜しんで、津波を起こし引きとめ

  ようとしました。姫は、「私は今父君のおめしをうけて杵築の宮にまいろうとここまで来たので

  ある。早く波をしずめ潮をひかせて道を開かせたまえ」と言って浜辺を通ろうとされると、大波

  がピッタリ止んでしまい美しい白浜にかえりました。それで、お供の者たちの手を引いて真一文

  字に稲佐の浜にお急ぎになりました。そのいわれで、手引き浦というようになったそうです。


■ 小田神社


さて、なぜ海路からか、出雲へと私が思ったのかですが、田儀からまた東に行った所に、小田神社

という古社がありまして、元々は、社は海の中の鸕鵜島(うのしま)に鎮座していたという話から

です。なぜに、神社が会場の小島に? なにかのメモリアルとしか思えません。


小田海岸

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ここの神社の祭神は、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。
配祀神は、豊玉姫命、鵜葺草葺不合命、玉依姫命で、日向神話の祭神たちです。
富家伝承によれば、彦火々出見尊は、饒速日命と市杵嶋姫命の御子です。

改めて、日本書紀を確認しました。
ニニギノミコトー彦火火出見尊(またの名火遠理命、山幸)ーウガヤフキアエズノミコトー神武天
皇という系譜ですが、神武天皇の別名、「彦火火出見尊」とも書かれていて、混乱する記述となっ
います。

小田神社 拝殿と本殿 
島根県出雲市多伎町小田503


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■ 差海から神西湖ー神門水海へ

そして、海で西進し、湖陵町差海辺りにかけて上陸したのではないか…と。
湖陵町の差海川を上って行くと、現在の神西湖(出雲風土記時代の「神門水海」)につながります。
ここの差海に鎮座する神社の祭神は、建御雷神、経津主神で、社伝によれば、国譲りに際して、「
須々美降リ玉ヒシ地ナルヲ以テ須々牟トイフベキヲ、後世佐志牟ト云へルナリ」ということです。

当地に上陸し、「須々美」(すすみ)が「須々牟」(すすむ)となり、「佐志武」(さしむ)とな
ったらしい。出雲地方の神社名は、「ほとんど意味不明」なので、こういう現代語の転訛で説明さ
れるとなんか違う気がします。また、この神社名の「佐志武」から地名の「差海」(さしうみ)に
なったそうです。

佐志武神社 
島根県出雲市湖陵町差海891

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佐志武神社 本殿と拝殿

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この差海から対岸の方向から(東北方向)から写した現在の「神西湖」(じんざいこ)の姿です。
神西湖は、古代の「神門水海」(かんどのみずうみ)の名残りです。
弥生時代には、斐伊川は宍道湖ではなく神門水海を流れていました。

出雲大社の前は、今のような広い平野ではなく、神門水海という大きな湖があったようです。
 
神門水海の名残 神西湖 

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差海からいったん上陸し、また船で知井宮の真幸ヶ丘(旧 山崎ヶ丘)の裏手に回ったのではない
のだろうか。そこから、智聞院遺跡の辺りにあったとされる西出雲の王宮に侵入したのではないか
しら。まあ、想像の域を超えることはありません。

弥生時代の神門水海
「神西湖親水公園」の看板に、私が黒字の地名を加工したものです。 


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その後どうなったかについては、過去記事へ。→神門臣の拠点はどこだったか? (4)西出雲王国滅亡の時

真幸ヶ丘から見える古志の街並み

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真幸ヶ丘に鎮座する智伊神社

元々は、神宮寺の智聞院にあったという。
富家伝承本によれば、宇佐家の菟上王が建てた神の宮とは、出雲大社ではなく、出雲王宮跡に建てた智伊神社だそうで
ある。


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# by yuugurekaka | 2017-01-28 20:41 | 出雲王朝の崩壊

雪が降りました。

昨日まで降っていた雪が、ようやく止みました。
昨日は、人様の家の雪かきで体がぐったり、今朝は腰が痛くなって歩けないのではないか…と
少し心配しましたが、ちょこっと痛いだけで、歩くのに支障はありませんでした。

自分の家はどうかというと、
車の上に40センチぐらいの雪が積もっておりまして、
車も出せる状態ではないです。(やっと、今日 家の前の雪かきができました。)
だから、職場まで5キロぐらいあるのですが、歩いて行ったのです。
車で行けない程、積もっているわけではないですが
他の車のトラブルに巻き込まれたりするのが、まあわずらわしい。

1時間早くでればなんとかなる
すべったり、車が進まなかったり、そういう不確定要素が、最近は嫌のようです。
運転も不安ですが、体も不安です。

変形性膝関節症、頚椎症…と、ことあるごとの病院での診断に、がっくりときます。
それに今年は、また内視鏡の検査に行かないといけない年…。
60を前にして、だんだんと自分の体に用心深くなっています。

手嶌葵 - 明日への手紙


最近のお気に入り動画です。
ドラマの主題歌だそうですが、ドラマは見ていません。
手嶌葵さんの声が最近好きになって(ジブリの映画のファンではないです。)
CDを借りて、車の中や家で一緒に歌っています。
前向きな歌詞ですが、なんか、はかない気持になります。
この動画に出てくる、女の子がお人形さんと一緒に食べるシーンが寂しそうですが
(熊さんの人形だとずっと思っていましたが、よく見るとネズミさんであることがわかって、び
 っくりしまして、恥ずかしくなりました。)
自分の今の生活となんら変わらない気がします。

※このミュージックビデオは、ドラマの1シーンではなくて、ミュージックビデオのために作られ
 たものらしいです。
 

はて?なんでこんな人物がこういうブログを書いているのかですが、
もう十年も前になりますか、鳥取県の大学病院に2か月入院していて
退院後も、1か月おき2か月おきで通うことになりました。
そうしていると、鳥取県には、大国主命の再生神話の伝承地が多いということを発見しまして
行ってみたくなりました。

それを日常生活のブログの中の一つのコンテンツとしていました。
難病のブログでしたが、治ってしまったので、もう場違いな気がしまして、
今のブログのコンテンツだけ残しました。

昔はたんなる神社訪問記だったのです。
しかし、自分がなんで書いているのか、自分でも疑問になってきました。
だが書き続けているうちに、
自分の心のうちの一つの棘かなーと思うようになりました。
死ぬまで抜いておこうと。
だから、あんまり神様の「ありがたい話」はありません。

戦前、戦後のどちらも歴史に対して、自分には不信感があります。
大国主命も事代命も神話でしか過ぎず、
出雲王朝など、ヤマト王権を高めるためにつくられた大ウソである
云われてきた歴史です。


# by yuugurekaka | 2017-01-25 22:38 | 日記

■物部の祖神を祀る神社


物部神社 島根県大田市川合町川合1545

※ 最近の画像ではありません。


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久しぶりに司馬遼太郎の『生きている出雲王朝』(『歴史の中の日本』所蔵 中公文庫)をあけて

見ました。(ここに、司馬遼太郎氏の出雲王家の末裔である産経新聞社時代の同僚W氏のことも書

かれているのですが、富家伝承本とはかなり違ったことが書かれてことに改めて気づきました。)

それはさておき、物部神社のくだりに。


“この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられた

 のではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前期の天穂日命など

 のころよりずっとくだり、崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物

 部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫の

 カギをここで預かっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来たものがあり、物議をかもしたこ

 ともあったという。”             (司馬遼太郎著『歴史の中の日本』中公文庫)


司馬遼太郎氏の云うところは、日本書紀の崇神天皇時代における出雲神宝問題に関わる出雲振根討

伐の話から発想されたものだと思います。そのときは、物部武諸隅が登場します。その次の垂仁天

皇には神宝検校役として、物部十千根が出てきます。

また石見国造は、景行天皇より、物部竹子連が石見国造として命ぜられて以降、物部氏が国造家だ

ったようです。


出雲国の監視のための軍事施設という説ですが、この物部神社は、出雲の国よりかなり離れていま

す。出雲の国の境には、多伎町田儀から、仙山峠という長い峠があり、朝山を越えて、大田市内か

ら三瓶山に向かったところにあります。出雲を攻め込むための軍事基地というならわかりますが、

監視目的だとちょっと場所が遠い気がします。


物部神社拝殿

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■祭神 ウマシマジ命

ここの祭神は、饒速日命と長髄彦の妹である三炊屋媛の間の御子とされるウマシマジ命(『日本書
紀』表記では、「可美真手命」、『古事記』表記では「宇摩志麻遅命」)ですが、社伝によれば、
天香具山命と共に物部の兵をひきいて尾張・美濃・越国を平定した後、播磨・丹波を経て石見国に
入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の賊を平定し、ここの八百山の麓に宮居を築き、この地で没し
たといいます。また、異母兄の天香具山命は新潟県の彌彦神社に鎮座したとのことです。


ウマシマジ命は、鶴に乗って石見国の鶴降山(つるぶさん)に降臨したとの伝承がある。

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この饒速日命の子…というのが、大きく時代考証を混乱させます。
彦火明命ー天香具山命ー天村雲命の海部・尾張氏の系譜を記紀は消し去り、神武東征(物部氏)の
話を挿入するわけですが、実に二度の「はつくにしらすすめらみこと」が物部氏で、それよりも前
もやっぱり物部氏だった…という話の落ちです。

大国主命や事代主命と同時代の人物を登場させることにより、「国譲り神話」をすべて疑わせるよ
うな展開です。ウマシマジ命が饒速日命の時代に出雲を平定するならば、そもそも国譲りなどする
必然性もないのです。

富家伝承によれば、長髄彦は、第八代孝元天皇の御子ー大彦命(父族祖天香具山命や母族祖ー事
命)であり、物部氏の東征に抗して、最後まで闘ったけれど、琵琶湖の東岸に逃れ、最終的に
北陸に移住したという。その子孫には、後に若狭(福井県)国造になった膳臣(高橋氏)や、高
国造になった道公家があるとのことです。なお、記紀では、大彦命(おおびこのみこと)は崇神
天皇の派遣した四道将軍として名前が出ています。

となれば、葛城王朝の末期の後代の話であり、葛城王朝もろとも出雲の王朝も崩壊させられたとい
うことでしょう。
どこの経路を通って、西出雲の王都を攻め入ったのでしょうか。

# by yuugurekaka | 2017-01-18 19:47 | 出雲王朝の崩壊

稲佐の浜(いなさのはま) もしや奈良時代の話?


出雲大社より西へ1キロ行った所にある稲佐の浜です。ここが「国譲り神話」の舞台となっており、

大国主命に経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神の二神が、「国譲り」を迫ったと云われてい

る浜です。また経津主命は、物部氏の神で、甕槌神は中臣氏(藤原氏)の祭神であると云われて

います。


稲佐の浜 島根県出雲市 大社町杵築北稲佐


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しかし、同じ記紀に、天照大神のかなり後の子孫が東征をして、大和入りし、事代主命の娘や子孫

母族として、ヤマト王権を造るという大きく矛盾した話を載せていることを考えると、この国譲

り神話は、いったい何を意味しているのでしょうか。


史実ではないことはもちろんですが、記紀が書かれた時代のことを考えると、これは弥生時代の話

はなくて、もしや持統天皇の時代のことを言っているのではないかという思いが浮かびました。


よく言われることですが、天照大神のモデルは、天武天皇の後を継いだ女帝、持統天皇だとされて

ます。和風諡号の一つに「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)とあ

ります。→ウィキペディア 持統天皇


そうして考えていきますと、この「国譲り」を迫る経津主命のモデルは、石上麻呂(物部麻呂)で、

甕槌神のモデルは、藤原不比となります。

この二人、元明天皇の時代には、左大臣、右大臣を任じられています。


しかし、物部氏や中臣氏は、共に壬申の乱で天智天皇の太子・大友皇子側の忠臣です。壬申の乱で、

敗北した側ですので、本来は没落していっても不思議はありません。

天武天皇の側には、いわゆる出雲系豪族というか、葛城王朝系豪族の尾張氏、三輪氏、鴨氏などが、

(三輪君高市麻呂、尾張宿禰大隈、鴨蝦夷…)ついています。


しかるに、天武天皇の死後、大津皇子が謀反の疑いをかけられ自害させられるなど、謀略めいた事件

もあり、結局のところ、天智天皇の系統が、持統―文武ー元明…と続くのです。あの壬申の乱は一

体全体なんだったのでしょうか。

そして、物部氏や中臣氏は、没落するどころか、持統天皇、元明天皇に仕え、出世しています。「国

譲り神話」とは、天武天皇ー葛城王族達から、朝廷を奪い返したという隠喩なのかなあ…と。

さて空想は、このぐらいにしておきます。

 

薗の長浜 大社町の「稲佐の浜」から出雲市長浜にかけての砂丘

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一説によれば、「稲佐の浜」を、古くは、出雲大社前の浜だけではなく、はるか西方の田儀浦まで

を言ったようです。

物部・豊連合軍(物部氏+宇佐氏)は、杵築の浜では無く、もっと西の浜から上陸したのではない

だろうか。



# by yuugurekaka | 2017-01-16 16:56 | 出雲王朝の崩壊