■野城の大神

安来市の能義神社(のきじんじゃ)であるが、出雲路幸神社以上に、謎の神社である。
そもそもの能義神社の祭神、野城大神という出雲国四大神(所造天下大神・熊野大神・佐太大神・野城大神)の一柱であるが、どういう神なのかはっきりしない。旧能義郡だけではなく、現在の松江市市街地の西部の野白(のしら)神社、野代神社などの、「野白」「乃白」「乃木」の地名もあり、古は、おそらく「野城大神」(のきのおおかみ)を祭っていたのだろう。当然、現在の神社の祭神は、猿田彦命であったり、もともとの祭神とは違う。

旧能義郡の安来市 能義神社の現在の祭神は、天穂日命である。
しかし、昔からずっとそうかと言えば、違うようである。江戸後期の『出雲神社巡拝記』には、「たかみむすび命」とある。むむっ、出雲路幸神社の宮所は、元は天神社で、菅原天神ではなく、少彦名命を祭っていたという話だから、その父神ということで、高皇産霊尊なんだろうか?

また、『出雲鍬』(18世紀中頃)には、〝出雲風土記鈔曰、大穴持命ト記セリ、俗伝二曰、此社野見宿祢ト云人アリ〟と、あり、表向き天穂日命であるが、実にいろいろな説がある。

能義神社本殿  島根県安来市能義町366

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富家伝承本『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、野城大神は、サイノカミ三神のうちの女神(つまり幸姫)というらしい。
となれば、幸姫に由来する場所に、「のしろ」あるいは「のき」の類の地名があっても不思議はない。

出雲と石見の境界に三瓶山という山がある。出雲国風土記では「佐比賣山」と云う女神山である。いわゆる幸姫だ。だとしたら、三瓶山の周りに、野城に由来する地名があるのではないか?と、調べると、「野城」(のじろ)という地名があった。

日御碕方面から見た三瓶山  

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が、しかし、この「野城」という地名は、明治8年(1875年)、円城寺村・市野原村が合併して野城村となったものである。たいへんがっかりしたが、気を取り直して、『角川日本地名辞典』を見ると、ここの合併して発生した「野城」とは別に、中世に「野城」といった地名があったと書かれていた。


# by yuugurekaka | 2017-11-12 08:00 | 野城大神

■ どこの鬼門にあたるか 

京都の出雲路幸神社は、京の御所の鬼門封じということだった。出雲国の出雲路幸神社の南西はどこか?と考えると・・・。
あっ 月山 富田城(とだじょう)がある。
中世の出雲国の中心は、現在の松江城ではなく広瀬町の富田城なのだ。

富田城跡のある月山 

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もしかしたら、狭井の社は、富田城の鬼門の守りとして、出雲路幸神社として、遷宮されたのかしら。
まあ 想像でしかない。
飯梨川自体が、北東に流れているので、能義神社も概ね北東である。
たんに宗教上の意味だけでなく、戦国時代には寺社が、急きょ本陣や宿営地となる。そういう実体上の守りの意味もあったという。

■ 京都の賀茂神社

出雲路幸神社の東側の神社を見ると、京都由来の神社が多いことに気付く。安来町の賀茂神社、赤崎町の貴布祢神社、利弘町の賀茂神社などである。

グーグルアースの地図

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貴布祢神社であるが、ご由緒によれば、「醍醐帝の御世延喜二〇年、山城国愛宕郡より後背の足引山に勧請」とある。延喜二〇年とは、920年であり、平安時代である。安来の賀茂神社は、「宝亀九年この地の人藤原実重・元重なるものが供物として雲州の物を度々献上して、勧請した」とあり、これは778年であり、もっと古い。利弘町の賀茂神社については「白鳳年中に国中天災地変続発して止まず、平治の為に勧請」とあり、白鳳時代となると7世紀後半から8世紀初めで、さらに古い。

賀茂神社鳥居  島根県安来市安来町安来541 
祭神は、別雷神、神日本磐余彦命
 
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和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)は、平安時代中期の出雲国「能美郡」(美は義の写し間違いというのが通説であるが・・・)の郷名に「賀茂郷」と「神戸郷」が別々に載っているところを考えると、賀茂郷はおそらく、京都の賀茂社(安来町宮内の糺神社との関連もあるので たぶん下鴨社)であって、神戸郷は、出雲風土記に見られる賀茂神戸(奈良の鴨社ー鴨都波神社と云われている)だろう。京都の鴨と奈良の鴨で、頭の中が混乱しそうである。

賀茂神社 拝殿  島根県安来市利弘町521 
主祭神は、神日本磐余彦命

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■ 意多伎神社(おたきじんじゃ)

能義神社からすぐ東に行った所に、その神社はある。出雲風土記にも記載のある古社だ。創立年代は、不詳であり、勧請したものとは違う神社で、京都とはなんの関係もない神社だと思っていた。しかし、この「おたき」の読みは、どこか聞き覚えのあると思っていたが、京都の出雲郷があるのは、愛宕郡(おたぎぐん)というところである。愛宕山(あたごやま)から、由来して、愛宕郡となったと思う。でも、愛宕(あたご)というのは、丹波国の阿多古神社(亀岡市の愛宕神社)の阿当護神を勧請して、後から愛宕になったようにも思われる。(→ウィキペディア 愛宕権現 

もしや、愛宕郡となる前は、意多伎郡でなかったのだろうか? 
イザナミと火の軻遇突智を祭っており、火の神を生んだために母親であるイザナミを亡くならせたということで「仇子」(あたご)とよばれ愛宕となったとする説(本居宣長『古事記伝』)もあるが、よくわからない。

意多伎神社 鳥居   島根県安来市飯生町679

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ここの「おたき」であるが、意多伎神社の御由緒によれば、「意多伎は於多倍(おたへ)で、食物を多布留(たふる)の義であり、これも穀物に関連する意味であろう。」(『神国島根』)ということである。また、「オタベ」は古語で
物を食べるという意味とも『平成祭データ』に書かれている。となれば、愛宕郡もそういう食べ物のことに由来したのかもしれない。

出雲国風土記(733年)に「意陀支社」が二社あり、ここの地域の地名由来が書かれている。

飯梨郷(いいなしのさと)
〝郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故に飯成(いいなし)と云う。神亀三年(西暦726年)に字を飯梨と改む。

ここの祭神『大国魂命』であるが、『大国主命』と名前が似ているので、大国主命とされることが多いが、在地の神なのに「天降りましし時」というのが、どうもなじまない。それに出雲風土記では、大国主命のことを「所造天下大神命」としていて、ここは違うと思う。
私は大国魂命』とは、京都府宮津市の籠神社祭神、天火明命だと思う。『日本書紀』崇神天皇のところで、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にしたところ、うまくいったという記述、つまりは子孫を祭主にしたということだ。市磯長尾市は、倭直の遠祖である。古代豪族 海部氏がこの辺りにもいたのだろうか?

意多伎神社 拝殿

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ここの神社は狛犬ではなくて、おいなりさんだ。ここの地名は現在飯生(イナリ)であるが、奈良時代に「飯成」と書かれてたのでもともと、稲荷神社の「いなり」の関係があったのではないかと思われる。稲荷神社は、どこの神社の境内でよく見ることができ、後から奉祭されたものが多いが、その本源地である京都の伏見稲荷大社の創建は、かなり古い。深草の秦氏族が、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、伊奈利社(現・伏見稲荷大社)を建てたということになっているが、『日本書紀』欽明天皇が即位(539年?または531年?)するまえに山背国紀伊郡深草里の秦の大津父の話が出ているので、秦氏の奉祭した神社はもっと古くからあったのかもしれない。→ウィキペディア 稲荷神 

稲荷神が、食物神の宇迦之御魂神と同一視されたとも云われているが、出雲風土記から見るに奈良時代には既に農業の神と食物の神との習合が始まっていたように見える。あれこれ考えると、京都一帯に地盤をもっていた秦氏との関連も考えられる。

さて、本題のなぜ京都の出雲路幸神社と同名の神社があるのかとの疑問であるが、この地域がかなり古い時代より、京都と関連があった場所であったことが一番考えられる理由である。サイノカミの社というのは全国にあり、出雲路幸神社の神徳というか、縁結びと鬼門封じ(封じというよりは、幽界と現世の架け橋の神のような気がする)は、出雲路幸神社だけでなく、サイノカミの社の特徴だと思われる。
そういえば、出雲大社の大国主命が、縁結びの神と同時に、「幽冥主宰大神 」(かくりごとしろしめすおおかみ)とも呼ばれるのは、サイノカミの神徳を体現しているのかもしれない。


# by yuugurekaka | 2017-11-05 19:38 | 塞の神

■ 出雲国・出雲路幸神社 弁慶の腰かけ岩

出雲路幸神社鳥居の右手に「弁慶の腰かけ岩」がある。

説明板には〝久安年中(平安時代末期)紀州熊野庄司ノ娘 辨吉女 當社ニ賽シ縁結ビヲ祈リ後 良縁ヲ得テ 一子ヲ挙ゲ武蔵坊辨慶即チ是レナリ 慶長ジテ當社ニ賽(禮参リ)シタリト傳フ〟と書かれている。

紀州熊野庄司の娘である弁吉(べんきち)が、出雲路幸神社にお参りし、縁結びを祈った所、良縁に恵まれ、武蔵坊弁慶が生まれた。
弁慶が大きくなって、ここの神社にお参りしたと伝わっているという。

弁慶の腰かけ岩  出雲路幸神社境内 
島根県安来市西松井町88   

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■ 出雲国・出雲路幸神社 結の神

享保2年『雲陽誌』(1717年)の「島根郡 長海」の項の「杵田大明神」の話に、武蔵坊弁慶の生誕・成長伝説など書かれている。

弁慶の母の出自と出雲国に来た経緯とは。

〝母は紀伊國田那部の誕象が子なり、彼誕象子なきによって熊野権現にいのり我をもうけたり、大治三年戊申五月十五日に生辨吉と名つけぬ、我容世にすくれ、醜によりて年二十になるまで夫なし、父母是を悲て出雲國結の神に祈誓し参詣をなさしむ、久安三年丁卯六月朔に生國を出、其時父母のいへるは汝夫なくは此國へ歸へらすとあり〟

紀伊の国の現・田辺市で「誕象」(たんぞう)という父の具体名が出ている。紀伊の熊野権現(主祭神は、家津美御子ースサノオ・速玉ーイザナギ・牟須美ーまたは「結」とも表記ーイザナミ)にお祈りして、弁慶の母「弁吉」が生まれたという。縁結びをお願いするに、久安三年(1147年)6月1日に出雲国の結の神に出立したとある。

この「結の神」であるが、現代においては、出雲大社か、八重垣神社がすぐ思い浮かぶが、江戸時代であれば、イザナミを祭っている神魂神社、熊野大社でも良いようにも思われる。十八世紀中頃に成立した『出雲鍬』には、ここの出雲路幸神社が「結の神」とされているが、なぜ京都の出雲路幸神社ではなくて、遠い出雲の出雲路幸神社なのか。

熊野つながりで、母神イザナミの故郷をめざしたのか、あるいは、『義経記』(弁慶が紀伊・田辺で生まれたことになっている)での、右大臣・藤原師長との騒動で、京都には行けない事情があったのか。(ちなみに弁慶は、天児屋根命の末裔で熊野別当 弁昌の子どもと描かれている。)

『懐橘談』(上 1653年)では、弁慶の父は「意宇郡熊野山の人なり」とあるが、『雲陽誌』(1717年)では、さらに二十歳くらいの山伏と書かれている。

長見神社 島根県松江市長海町59 
出雲風土記(733年)に記載のある古社。祭神は現在、瓊々杵命、木花開那姫命である。 

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母である「弁吉」は、出雲「結の神」に七日七夜お参りしたところ、夢告があった。
枕木山の麓に長海村という所があり。そこに七年住めば夫を得させよう。」と、長海に住み三年が過ぎた。春に山へ行くと、着飾った山伏が現われたのである。

我は是出雲の神の結にて

         汝を妻と定りそする


私は出雲の神の縁結びにて あなたを妻にすることが決まりました


うつたかき身をかさりたる山伏の

         わらはを妻とあるはそらこと


返歌 うずたかい体を飾った山伏が私を妻にするとは絵空事でしょう

弁吉は、縁結びの神の教えの通りだと喜んだ。そして、弁慶が生まれた。
詳しくは→ ウィキぺディア 武蔵坊弁慶生誕伝説

長見神社の近くには、様々な伝承地がある。
幼い頃、弁慶があまりに悪さをするので、島に捨てられたという伝説の弁慶島だ。
角度によっては、亀にも見えるので、亀島とも呼ばれている。

弁慶島(亀島)   
島根県松江市野原町

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長見神社の右手の道をしばらく行くと、右手に大きな石がある。弁慶が幼い頃に立てたと言われる高さ180cmある「弁慶の立ち岩」。
怪力伝説のようだ。

弁慶の立岩

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「弁慶の立ち岩」から、少し行くと、「弁慶の森」の入り口に着く。
踏み石が山の中に整備されている。

弁慶の森 入り口
説明板には、〝弁慶の森 武蔵坊弁慶が生れた森。 弁慶の母弁吉は紀州和歌山県田辺市の生まれだが、縁あって長海の里に来て弁慶を生んだという。 この森の入り口から5分程登ったところに母弁吉が手で掘ったといわれる弁慶産湯の井戸跡がある。また中央には、弁慶が母の御霊をまつる為に建立した小さな祠「弁吉女霊社」があり、弁吉女霊社祭が毎年7月1日この地で行われる。

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苔むした石段を登って行くと、弁吉女霊社の祠があった。
薙刀のちいさなものが奉納されていた。今も安産を祈願をしてお礼参りする人があるという。

弁吉女霊社

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弁慶は、華蔵寺、福原の澄水寺、出雲の鰐淵寺に立ち寄り修行をして、後に京都に行き、「五条の橋の上」で牛若丸に出会い家来になるのであった。ちなみに『義経記』では、牛若丸と弁慶が出会ったのは五條天神社であり、決闘の場所も五条大橋ではなく、清水寺だったそうだ。


# by yuugurekaka | 2017-10-30 12:47 | 塞の神

中世の文献から京都の出雲路幸神社や当時のサイノカミの社を外観すると①旅の神②鬼門封じの神、御霊を鎮める神③縁結びの神、性の神④身分の上下を問わず霊験ありと、いう性格を帯びており、武家社会の進展により、合祀の対象となり衰微の傾向があったように思えた。
その3点を頭に置いて、出雲国の出雲路幸神社を考えてみる。

グーグル 出雲国・出雲路幸神社の位置 

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■ 能義神社のすぐ近くの川岸 

まずは、この位置であるが、現在は飯梨川をはさんで、能義神社(のきじんじゃ)の西側にあり、すぐ近くである。なぜにこんなに近いのだろうかと感じた。飯梨川をはさんで…というのに意味を考えてみるが、この飯梨川(富田川)の位置は、寛文6年(1666年)の洪水以前は、今の場所ではなく、もっと西の車山の麓を流れていたようだ。

御由緒によれば、「もと道祖神、松井宮とも称し、今の境内地を五町ばかり距る狭井原に鎮座ありしを、天神社の境内たりし狭井山(現在地)に移し奉れりと伝う。旧社地は出雲風土記にいう国庁より野城駅を経て伯耆に至る国道線路に面し、東西松井の分岐点に位置した。」(島根県神社庁発行『神国島根』より)そうである。

遷してきたのは、寛文6年(1666年)の洪水が関係したのかどうかわからないが、寛永2年(1625年)の棟札がある。洪水の前には建てられていたことになる。

出雲路幸神社の近くから見た 飯梨川

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『雲陽誌』(享保2年―1717年)には、「能義郡 松井」の所に
「出雲路幸神 猿田彦命天鈿女命を祀、祭日十月十五日なり、當國【風土記】意宇群に狭井社あり、今能義郡なれは是なるへし、世俗道祖神といふ、王城賀茂川の西一條の北出雲路の道祖神と同社なり、…」と、書かれている。江戸時代八代将軍徳川吉宗の頃には、「出雲路幸神」と呼ばれていた。また、京都の神社と同名であることも認識されている。
「旅行の人門出に是神祭て先て啓行神といふ心にてさいのかみといふなり。」とも書かれている。猿田彦命が、ニニギノミコトを先導したとの話から、旅人が門出に、「みちひらき」の神として祭ったこともかかれている。

出雲路幸神社 島根県安来市西松井町88

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出雲風土記(733年)には、ここの周辺に「野城の駅家」が設置されたことが書かれている。(駅家は、単に駅とも云う。)

「野城駅。郡家の正東二十里八十歩の所にある。野城大神が鎮座していらっしゃるのによって、だから、野城という。」

駅家(うまや)とは、
〝令制において,国司の管轄に属し,駅馬をおいて,駅使の往来,駅鈴をもつ官人の乗用に供し,その宿所と食糧を提供する施設。大化改新によって初めて設置され,大宝令にいたって整備された。〟(ブリタニカ国際大百科事典 より) 他 ウィキペディア 駅家
現在の能義神社の周辺から西の車山方面に古代山陰道があったと云われている。中央と地方との情報連絡が主目的の道路であったようで、役人の出雲→奈良・京都の往来に使われてきたわけである。
時代は代わって、参勤交代などに使われた江戸時代の伯耆街道は、また別のところに整備されたのだが、ここの古代山陰道も、旅人の道となっていたのだろう。参考→ ウィキペディア 日本の古代道路


# by yuugurekaka | 2017-10-22 21:18 | 塞の神

■ 今川貞世 『道行きぶり』

3代将軍足利義満時代、九州探題に任命された今川貞世(了俊)(※→ウィキペディア 今川貞世が九州に赴くまでを書いた紀行文『道行きぶり』(応安4年 1371年頃)には京都・出雲路幸神社にある同じような形のものが奉納された石塚の話が書かれている。

〝 四 石の塚とみとの出会い

  清水・金崎などうち過ぎるに、それより南にあたりたる所を問ひしかば、飾磨が里といふ。徒歩路は少し隔てたれども、川波の海に出でたるけしき、遥かに見渡され、なにとなくおもしろし。
 又いささか行き過ぎて、川のほとり近く、石の塚一侍り。是は神のいます所なりけり。出雲路の社の御前に見ゆる物の型ども、一、二侍りしを、「なにぞ」と尋ねしかば、「此(の)道を初めて通る旅人は、高(き)も卑しきも、必ずこれを取り持(ち)て、石の塚をめぐりて後、男女の振舞のまねをして通る事」と申ししか、いとかたはらいたきわざにてなむ侍りしかな。
 まことや、此(の)神の本社は、ほど近き所の海の中に立(ち)給ひたるが、「かやうにまなび侍るたびごとに、御社のゆるぎ侍(る)」となん申(す)めり。あらたなることなるべし。
  伝え聞く神代ののみと目合ひをうつす誓ひのほどもかしこし
ここをば、磯崎とも磯の渡ともいふにこそ。
  旅なればとけても寝ぬを春の夜の磯の渡わたりの遠くもあるかな。
それよりこなたに、恋の丸といふ里一村侍(る)。いかなる人の物思ふとて、名乗りにし侍りつらむとおぼえて、いとおかしく侍りき。
  夢とても妹やは見ゆる旅衣紐だにとかぬ恋のまろねにかかる所の名を聞き侍るに、まづ思ひ出る方の侍るかな。〟
                            
姫路のどこの川のほとりかわからないが、石の塚がある。京都の出雲路幸神社の前に見える物の形、これは現在の御石さんというよりも、何か奉納された、石か木かわからないが男棒のように思える。それを持って、しぐさをしないといけないからである。
昔は、幸神社にそういうものが神具として奉納されていたのだろうか。
「この道を初めて通る旅人は、身分の高さに関係なく、必ずこれを持って、性交の真似事をして通ること」となっており、今川貞世が気恥ずかしい思いをした。
「初めて通るもの」がしないといけないとは、この儀式が「祓い」の儀式だったのだろう。もしや、神主さんがするお祓いの原初的形態が、そういうものだったのかもしれない。

また、この社は「旅人」を対象にしているということがわかる。一般に近世のサイノカミは、道の神というよりは、村落共同体の神で、縁結びであったり、子どもの神であったり、災いが村に侵入しない御利益の神である。そういう旅の安全を祈願するというご利益を兼ね備えていたのだろう。

実にこの神の本社は、海の中に立ち、性交の真似事をするたびに、連動して、揺れ動いたと、云う。海の社といえば、宮島の厳島神社が思いつくが、そういう形態の神社も昔は多かったのかもしれない。



■ 『播州名所巡覧図絵』

享和三年(1803) 村上石田著『播州名所巡覧図絵』巻四には、今川貞世(了俊)の文章を引用して、その石塚に関連すると思われる「道辻塚跡」や「道辻の祠」の記事が見える。



兵庫県南西部を流れる市川                           画像出典 ウィキぺディア

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               By Corpse Reviver - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link


「市川」の所の後に

〝 道辻塚跡、今は姫府惣社に土祖神として移されたれども、もとは此市の(国衙ノ庄)西に立たり、今川了俊九州にに往紀行、・・・〟(村上石田著『播州名所巡覧図絵』)

と、ある。
「道辻塚跡、今は姫府惣社に土祖神として移された」とあるが、姫路の総社・射楯兵主神社の「十二社」の中に、「道祖社  祭神 岐神」があるが、この社のことなのだろうか(→ ウィキペディア 射楯兵主神社 
場所として、射楯兵主神社の西の方の市川のほとりにあったのだろうか。


播磨国総社・射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)  兵庫県姫路市総社本町190  
祭神は射楯大神(五十猛尊)と兵主大神(伊和大神、大国主命)である。 画像出典 ウィキぺディア


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                         By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link


また、「飾磨川(しかまがわ)」の所の後に

〝道辻の祠、飾磨市中に小祠の残れり、今、幸の神といふ。此祠の事は、姫路志深 道辻祠として源貞世の文にいへるごとく、昔は社も大きくて、年の末には男女陰形の供物を備えて、里民の男女、女なし男なしの者は、此拝殿に打ち交り入(り)て戸を閉じて縁を引(き)たる也、又宮守は竹の杖を以(っ)て祓ひし、其(の)杖を以(っ)て妻妾を撰ばず腰を打(ち)て安産の呪とす、尚さるがう手づま曲鞠などでにて賑へり、今はすべて絶たり〟(村上石田著『播州名所巡覧図絵』)

とある。この「姫路志深」でインターネット検索すると、現在の姫路市御国野町深志野辺りが出てくるが、飾磨川の後に出てくるところをみると、現在の船場川河口付近のところにあったのではないかと自分には思える。ここの社は「男女陰形の供物」を備えるとあるが、男棒のものばかりではなく、女性のものもお供えしたもののようだ。主に「縁結び」、実際上の縁結びの場として、古は神社が機能していたらしい。
「志深道辻社」を検索すると、『赤松則房雑談聞書』が出てきた。

〝志深道辻社 赤松貞範貞和元年二月十日しかまよりうつす。男女のゑんむすびの祭也。男女の陰陽形を作り、神前にそなふ。〟(『赤松則房雑談聞書』)
これが本当であれば、貞和元年(1345年)には既に遷されていたことになる。これが、射楯兵主神社の道祖社かどうか、わからないが、室町時代には賑わっていたサイノカミの神社は、南北朝の時代にはすでに衰退期となって合祀の対象となっていたことが想像される。

# by yuugurekaka | 2017-10-14 06:57 | 塞の神

鎌倉時代の軍記物語である『源平盛衰記』に、京都の出雲路道祖神社にゆかりのある「笠島の道祖神」の
が出ている。
光源氏のモデルの一人ともされる藤原 実方(ふじわら の さねかた)が、長徳元年(995年)正月に突然陸
奥守に左遷される。(左遷ではないとの説もある。)
その藤原実方だが、長徳4年12月笠島の道祖神の神罰により亡くなったとの逸話がこれである。

〝笠島道祖神事

終に、奥州名取郡、笠島の道祖神に蹴殺にけり。実方馬に乗りながら、彼道祖神の前を通らんとしけるに、人の諌て云ひけるは、此神は効験無雙の霊神、賞罰分明也、下馬して再拝して過ぎ給へと云ふ。実方問う云ふ。
何なる神ぞと。答へけるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする出雲路の道祖神の女なりけるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁ぎて、親に勘当せられて、此国へ追下され給へりけるを、国人是を崇め敬ひて、神事再拝す。上下男女所願ある時は、隠相を造て神に懸荘り奉りて、是を祈申に叶はずと云事なし、我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、
実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打つて通りけるに、明神怒を成して、馬をも主をも罰し殺し給ひけり。

佐倍乃(さえのじんじゃ)神社 鳥居  宮城県名取市愛島笠島字西台1-4    画像出典 ウィキペディア 

Torii gate of Saeno-jinja shrine.JPG
               佐倍乃神社鳥居 By Bachstelze - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link 



現在の宮城県名取市の笠島の道祖神の前、現在の佐倍乃神社(さえのじんじゃ)の前を―佐具叡神社(さぐえじんじゃ)元宮との説もある―、藤原実方が馬に乗って通ろうとするとき、地元の民が「この神様は、御利益あること無比の神様で、賞罰をはっきりされる神様なので、馬から降りて、通りなさい。」と忠告した。
藤原実方は、「ここの神はいかなる神か。」と問うた。民は「京都の賀茂の河原の西、一条の北の辺に坐す出雲路道祖神の娘なのですが、大事に育てられ、良い夫に逢うようにしたが、商人に嫁いだため、勘当され、この国に追いやられた。この土地の人々が神として̝あがめ祭ったのです。身分の上下や男女問わず、お願いがあるときは、男根型のものを造って、奉納すれば願い事はかなうでしょう。京の都の人ならば、この神を敬って参拝してまた京に戻りください。」と言ったが、藤原実方は、「この神は下品の神だ。そんな神の前で下馬する必要などない。」と、下馬せず馬を動かし通ろうとしたところ、ここの神は怒り、馬と一緒に罰して殺してしまったという。

なお、「実方中将の墓」と伝えられる史跡が、佐具叡神社の元宮の近くにある。

佐具叡神社あるいは佐倍乃神社から、名前から想像すると、元々「サエ(サイ)の神」を祀っていたと思われる。
そして、サエノカミは、女神だったのだろうと思う。
男根型のものを造って、奉納する」ということで、松江市にある八重垣神社の境内社 山神社が思い浮かんだ。あそこにも、男根型のものがたくさん奉納されていた。今は、そういうものが奉納されている神社は、「子宝の神様」を主にご利益があるとされているが、自分は、性器そのものが呪術性をもった存在ではなかったのかと思う。

その祭神が、約30年前神職の方にお聞きしたら、イワナガ姫ということだった。
(山神が、オオヤマツミということになっているので、いつしかイワナガ姫となったのであろうが、よく考えると同じ娘のコノハナノサクヤ姫でも良いし、実際山神社と称する神社で、コノハナノサクヤ姫を祭神にしているところもある。)
島根県の三瓶山が、古名を佐毘売山(さひめやま)と云い、サイノカミの女体山との話もあるので、山神というのも、元々はサイノカミであったのかもしれない。

出雲路幸神社境内 北東隅の石神さん (おせきさん)  京都府京都市上京区幸神町303 
陽石(男根型)であり、元々の御神体とも言われる。

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この「京都の出雲路道祖神の娘」という話は、おそらく後からだれかが作った話で、陳腐な感じがする。この「商人に嫁に行く」ということだが、嫁取婚とは、武家社会になってからの婚姻制度であって、そもそも夫が通ってくるもの(妻問い婚)だろう。
また、延喜式式内社(延長5年 927年)に佐具叡神社も見られるから、京都から分霊を勧請するという話ではなく、もともと女神のサイノカミをまつっていたのではなかろうか。

それと、「下品の女神」ということだが、この陰陽石信仰の伝統があるにもかかわらず、すでに鎌倉時代において「性器崇拝は下品なもの」との認識があったということに驚いた。しかし、これは、上流の階層の話ではないかとも思う。
近世の村社会(農民)にサイノカミ信仰が拡大したこと(地域によって分布の状況が違うが)を考えると、階層によって認識のずれがあったのかもしれない。階層による婚姻形態の違いが、影響しているのかもしれない。ただ、想像するばかりである。

# by yuugurekaka | 2017-10-07 17:26 | 塞の神

京都の賀茂川の西に出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)がある。
また、島根県安来市の飯梨川の川岸にも、同名の出雲路幸神社がある。
なぜ、同名の神社なのであろうか。
まずは、京都の出雲路幸神社。
京都に出雲氏はいたのか。


平安時代初期のの『新撰姓氏録』(815年)を見ても、出雲氏族の名前が見られる。

左京  神別 天孫 出雲宿祢 宿祢 天穂日命子天夷鳥命之後也
左京  神別 天孫 出雲      天穂日命五世孫久志和都命之後也
右京  神別 天孫 出雲臣  臣  天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也  
右京  神別 天孫 神門臣  臣  同上
山城国 神別 天孫 出雲臣  臣  同神子天日名鳥命之後也  
山城国 神別 天孫 出雲臣  臣  同天穂日命之後也

※『新撰姓氏録』を見ると、出雲姓は大国主命、事代主命を始祖とするものは見られない。すべて天穂日
命を始祖とするもので、天津神の系統としている。


京都の賀茂川 
賀茂川と高野川が出町柳で合流して鴨川になるらしい。一般的には鴨川なのかもしれないが…。
上賀茂神社と下鴨神社で、かもの字が違う。「かも」の表記は難しい。


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現在も京都賀茂川の西岸に、出雲路俵町や出雲路神楽町などの地名が見られる。平安京への遷都に伴っ
て、出雲氏族が移動したのかと思いきや、
正倉院の文書『山背国愛宕郡出雲郷計帳』(神亀3年ー726年)には、300名以上の出雲氏族の名前
が書かれているという。
つまり、奈良時代にはすでに京都に住みついていたのである。

また、出雲郷は上と下に分かれており、雲上里と雲下里と言ったようだ。
奈良時代から、ここの出雲臣一族が多くの下級官人を輩出したらしく、『出雲郷計帳』によれば雲上里で
12人、雲下里で18人の下級官人の名がみえ、ひとりを除くすべてが出雲臣氏出身であったそうである。

出雲路幸神社 京都府京都市上京区幸神町303

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サイノカミ三神の猿田彦神を祀っているから幸神社というのは明らかである。
この出雲路というのは京都の地名なのであろう。
猿田彦神は、道の神でもある。それゆえ、出雲「路」なのかもしれない。

現在ここの神社の京都御所のちょうど東北に位置し、「平安京」の鬼門封じの神社とも言われておる。
しかし、京都御所の位置であるが、平安遷都(延暦13年・794年)時は、現在の京都御所よりも1.7キ
ロ西の千本通り沿いにあったようだ。(→ウィキペディア 京都御所 )

なぜ、道祖神が「鬼門封じ」の神に選ばれたのであろうか。
たとえば、平安時代成立の法令集『延喜式・第一巻』(藤原時平/藤原忠平ら編集)6月祭条に記されて
いる道饗祭(みちあえのまつり)であるが、毎年6月と12月の2回、都の四隅道上で、八衢比古神(やち
またひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)の3柱を祀り、都や
宮城の中に災いをもたらす鬼魅や妖怪が入らぬよう防ぐ神事が行われた。(→ウィキペディア 道饗祭 )
いわゆる境界神サイノカミ三神は、京都では八衢比古神・八衢比売神・久那斗神と祭られたようである。

以上のように宗教上の理由も当然あったのだろうが、平安京の北東に出雲氏族が住む出雲郷があったこ
とを思うと、実体上の守りを、出雲氏が担っていたのだろうか。

出雲路幸神社の社伝によれば、当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661年)に再興
され、桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京の鬼門除守護神として改めて社殿を造営されたという。
また、平安遷都後は「出雲路道祖神」と云い、江戸初期に現在の地に遷座された際、「幸神社」と改め
たという。
なお、歌舞伎の創始者である出雲の阿国が、幸神社の稚児であり、巫女として仕えたという故実がある
ため、芸能上達を願う人々の祟敬を集めているようだ。


出雲路幸神社の位置 グーグル地図

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京都や奈良など地名に見える「出雲」は、おそらく、出雲国を本源地とする豪族の出雲氏の足跡だろうと
思う。壬申の乱(672年)には、大海人皇子(天武天皇)側についた人物として、出雲臣狛(いずもお
み こま)という人物が登場する。(→ ウィキペディア 出雲狛 出雲臣狛が、どこに住んでいたかわか
らないが、出雲氏は飛鳥時代にはすでに奈良か京都に住んでいたと思われる。

古事記や日本書紀に目を向ければ、垂仁天皇時代の野見宿禰、応神天皇没後に淤宇宿禰(おうのすくね)
という後の出雲氏の祖が見られる。となれば、出雲姓氏として存在しなくとも、弥生時代の後半から古墳
時代すでに、近畿地方に存在したことになる。
なお、この出雲姓は、『出雲国造世系譜』によれば、17世宮向(みやむく)臣の時、初めて、出雲姓を
賜ったと云い、反正(はんぜい)天皇4年のことであったという。


# by yuugurekaka | 2017-09-28 13:04 | 塞の神

古い神社へ行ったとき、鳥居の近くにお地蔵さまがあり、なぜ、こんなところにお地蔵さんが?もしや、
サイノカミが担っていた「結界」のお地蔵さんかしら?などと思うのだが、有名な京都の宮津市の籠(
この)神社の奥宮である真名井神社へ行った時にも、参道に地蔵堂があった。これも、結界のお地蔵さ
か?などと勝手に思った

しかし、この地蔵さんの説明板を読むと、全くの見当違いということがわかる。真名井社の参道の
蔵さまは、「波せき地蔵」と言って、大宝の大地震(約1300年前)に大津波が起きて、ここで波が切り
返したというお地蔵さんだったのだ。 (→ ウィキペディア 波せき地蔵堂 

標高40メートルの地らしいが、もともとは大木に寄りかかるように置かれていて、1996年神社が地
堂を建てたようだ。
なんで、お地蔵さまなのだろう。地震や津波で亡くなった人たちの供養で建てられたのだろうが、あの
世とこの世の境界の石仏としての役割もお地蔵さんにはあるようだ。

波せき地蔵堂  京都府宮津市大垣 

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ウィキペディアで、お地蔵さま、つまり、地蔵菩薩を調べると、このように書いてある。

〝地蔵菩薩(地蔵菩薩)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。サンスクリット語ではクシティガルバ
(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])
と言う。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して
「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き
流しを付けた荘厳具)、錫杖。種字は ह (カ、ha)。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人
々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。日本における民間信仰では
道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供え
られている。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。
サイノカミが、たいへん習合度の高い神様で、「境界の神」「悪霊や疫病などを防ぐ神」「縁結びの神」
「子供の神」という多様な役割を持つように、お地蔵さんも「子供の守り神」以外にも多様な役割をもつ
ものと思われる。

西出雲のカンナビ山、仏経山の麓にたくさん見られるお地蔵さまの一つだが、番号が彫ってあり、なん
番号なのか、わからなかったが、「出雲三十三番観音霊場」への道標としての「丁地蔵」であることが
わかった。一丁ごと(約109メートル)に、建てられているから、多いはずだ。
現存する地蔵さまは、18世紀半ば~19世紀の半ばに製作されたもののようだ。


丁地蔵  曽枳能夜(そきのや)神社 島根県出雲市斐川町神氷823番地 
三十四丁と書かれている。

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出雲札所(観音霊場)の起源だが、約一千年前、花山法王(花山天皇)が、出雲の地に観音霊場を開き、
順拝されたのが始まりと伝えられている。
しかし、観音さまなのに、なぜ道標が、地蔵さまなのだろう。
他県の三十三番観音霊場をインターネットで見ると、丁石が観音像の場合も多いからだ。
地蔵さまが「道の仏さま」だからなのかしら。


賽の河原 加賀(かか)の古潜戸 
島根県松江市島根町加賀

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猿田彦大神とされる佐太大神が誕生したとされる加賀の潜戸の「新潜戸」に隣接している、賽の河原の
「旧潜戸」である。中世の仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」と思われるが、幼くして父母より先立った子
どもらがあの世で父母を思って積み石をしている、そこに鬼が来て、その積み石を壊す。そこへ地蔵さ
まが現れて子どもを救うという「賽の河原」である。

「賽の河原」というけれど、山にある場合が多い。加賀の潜戸の場合は、海岸の洞窟である。
洞窟は、黄泉国への入り口という信仰がある。
黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが投げた杖から岐神(クナド)の神が
生まれたという話があるが、あの世とこの世の境界神のサイノカミ(クナドの神も総じてサイノカミと
も呼ばれる)が、地蔵さまに転化したのかなあと思わされる。

『石の宗教』(五来 重 著 講談社学術文庫)という本がある。なぜ地蔵さまにサイノカミが習合す
るに至ったか、様々な理由が書かれていた。私はたいへん納得できた。

〝このような霊魂の往来を塞るための積石の代わりに、石棒を立てることもあって、石棒が男根形(コ
ケシ形)の石棒となり、これが道祖神の起源であることはすでに述べた。男根形の道祖神は明治維新の
「淫祠邪教の禁」で大部分撤去されたので、男神女神抱擁像の道祖神や文字碑だけが残ったに過ぎない。
ところが男根形の道祖神は、顔や袈裟衣を彫刻すれば、そのまま石地蔵になってしまう。石地蔵という
ものは、けっして図像や仏画や木彫の地蔵菩薩を石像化したものではなく、もともと石の宗教性から地
蔵が造形されたものであることを、私は主張するのである。〟
                          
〝そこで原始的な石の造形が、男根、女根であったことは、これが祖先のシンボルだったためである。
それを近代になるにつれて、祖先であることをわすれて、性的な興味をもつようになったので、恥ずか
しいという羞恥心をおこしたり、道徳的価値判断から「淫祠邪教」といったのである。明治維新の宗教
政策の一つに「淫祠邪教の禁」があって、撤去処分された石棒は莫大だったという。いま各地の考古資
料館などで、石棒や石杵として陳列されている完形品には、そのときの撤去物が多いと言われる。
                         (五来 重 著『石の宗教』講談社学術文庫)


# by yuugurekaka | 2017-09-22 21:52 | 塞の神

ラフカディオ・ハーンは、木の根神社の訪問の際、このように述べている。
「これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していた
ものだ。それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。」
              "小泉八雲著・平井呈一訳『日本督見記 下』 恒文社 " 

では、ギリシャはどうだったのだろう。
ネットで調べると、〝ヘルマ〟という古代ギリシャには道の神としての石棒とした造形物がある
ことを知った。以下のヘルマは、ポリュエウクトス が造った古代ギリシャの政治家デモステネス
をかたどったヘルマである。
原始時代ではなく、古代ギリシャの紀元前280年頃のものである。

画像出典 ウィキペディア ヘルマ

〝ヘルマ(ギリシャ語ἕρμα, herma, 複数形:hermai, ヘルマイ)は、石もしくはテラ
ッタ、青銅(ブロンズ)でできた正方形あるいは長方形の柱。柱の上にはヘルメースの胸像
が乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性の生殖器がついている。古代ギ
リシャの神ヘルメースの名はこのヘルマに由来するという説があり、一説には、ヘルメース神
は商人および旅行者の守護者としての役割を担う前は、生殖力・運・街道と境界と関連した、
ファルス(男根)の神であった。( ウィキペディア ヘルマ より)

石柱に写実的な彫刻。それだけでよさそうなのに、なぜ男性の性器を描く?と思うが、この性
器が、この石棒神の本質であったから描かざるを得なかったのだろう。

高群逸枝氏の文章が、頭に浮かんだ。
〝交通の神が性の神でもあるというのは、族外婚段階のヒロバのクナドを考えればわかろう。
クナドは文字通り神前共婚の場所であるが、またそのことによって他群と交通し、結びつくこ
とになる場所でもある。  
原始時代では、性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性
器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でも
あった。
大国主命の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかならない〟
(高群逸枝 『日本婚姻史』至文堂 )

つまりは、ギリシャの「道祖神」ヘルマも、共同体と他の地域の共同体を「結ぶ神」だったの
かなあと思うのである。
それはまた異界なる共同体の接点として、攻めてこないような、悪霊を封じる塞神としての役
割をもつようになったのではないかと思う。

道の神は、性神であり、また交通の神ー交易の神ー商業の神へと変容したのではないか。


# by yuugurekaka | 2017-09-02 22:31 | 塞の神

1)伯耆のサイの神まつり 
まずは、淀江町教育事業団発行「未来にヒントを!! 伯耆のサイの神さん」からの抜粋です。(番号は、私がつけています。)

① 昔は、淀江町や中山町では、竹やむしろで子供がこもる小屋を作られたり、淀江町では小型のサイの神さんを宿に迎えて絵具などで採食し化粧することも行われました。

② 一二月十五日午前0時をすぎるとサイの神さんの前で火がたかれます。サイの神さんは縁結びの神さんで早くまいるほど良い縁があり、遅くなるほど縁遠くなるといわれ暗いうちからきそっておまいりするのです。

男の子はわらづとをせおわせた「わら馬」を、女の子は「わらづと」を持ってまいります。わら馬は尻尾を焼いて供えるか、木につるしたり木の上に投げかけます。

※ 藁苞(わらづと)とは、いわゆる、納豆をくるむ藁でつくった入れ物です。

④「カタ焼き」といって米の粉や小麦粉だんごの中にあんを入れ両面を焼き上げたもの、小豆飯、米なども供えます。中山町岡ではかならず塩けご飯の「くじら飯」が供えられます。

⑤中山町御崎では小屋ごと焼いたり、名和町塚宮神社には大塚と塚根の二体のサイの神さんがあって、お互いにきそいあって火をたきました。また、江府町尾上原では、サイの神さんのご神体はありませんが、村の入り口の祭場で火をたくといわれます。サイの神祭りは火祭りであったと言えるようです。

中山神社のサイノカミさん

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2)サイの神祭り・とんどさん

伯耆町のサイの神まつりの特徴を見て、思ったのは、これは「とんどさん」ではないか?と、思ってしまいました。
でも、出雲地方の「とんどさん」ではなくて、双体道祖神が多い地域で行われる小正月、1月15日に行われる行事のとんどさんです。
「とんどさん」と呼ばれておらず、「サイノカミさん」「道祖神祭り」と呼ばれているようです。

伯耆地方で行われるサイの神祭りは、12月15日ですが、もしや、旧暦の12月15日が、新暦に移って、1月15日に行われるようになったのではないか?などとも想像したりもします。でも伯耆地方では、サイノカミ祭りと別に、とんどさんは1月に行われます。

1月15日の小正月の行事は、南インドでも行われているようです。
「一月十五日の夜…、コダンダラマン教授の親戚の人たち十数人が立ち上がり、小さい子供が先頭に立って『ポンガロー ポンガル』と大声で叫びながら家の周りを廻り始めた。」「タミルでもポンガルの前日(つまり年末)に、大きな箱、着物、莚など古した物を焼く。現在はこの行事をBokiといっている。これは雷の神インドラの名である。年の初めに雨を乞う行事と見られるようになったわけである。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より) 

昨今では、出雲地方では1月15日ではなく、1月7日前後の日曜日に行うところも多いです。大正月を終えるための儀式に変容しているように思えます。しかし、「本来は一月十四日が年末なのでその年の使い古した物を焼く行事だった。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より)なのかもしれません。

しかし、なぜ、馬のしっぽをこがすのだろう。
新潟県のサイの神祭りでは、木でサイノカミさんを造り、いっしょに燃やすところが多いのだそうです。神様を燃やす!?いったいどういう意味があるのだろうと思いましたが、ふと、縄文時代の祭祀のことが思い浮かびました。

3)縄文時代の石棒信仰

縄文時代の遺跡からは、様々な石棒が発見されてもおりますし、日本だけではなく、古代の性器信仰は万国共通のことです。

一口に石棒祭祀と言っても、時代によって変化しているようです。

「中期末以降は、住居の廃絶にともなう儀礼行為の一環として、石棒を火にくべるという祭祀行為が盛んにおこなわれるようになり、それが発展して後期前葉以降に廃屋儀礼が活発化するという、おおまかな変化が指摘されるのである。」(山本暉久『住居跡出土の大型石棒についてーとくに廃屋儀礼とのかかわりにおいてー』,谷口 康浩編『縄文人の石神~大型石棒にみる祭儀行為~』 六一書房 )

神のしるしであった石棒は役目を終えると燃やされ破砕されたのです。
現代のサイの神祭りで、木のサイノ神さんが、燃やされるいう事例から、これももしや、縄文時代の石棒祭祀のことが何か関係がないのかしらと思った次第です。

ある説では、近世から始まったサイノカミ祭りと言われていますが、私には、民衆の間において、古代から脈々と受け継がれたのではなかろうかと思えます。

# by yuugurekaka | 2017-08-25 23:30 | 塞の神