古い神社へ行ったとき、鳥居の近くにお地蔵さまがあり、なぜ、こんなところにお地蔵さんが?もしや、
サイノカミが担っていた「結界」のお地蔵さんかしら?などと思うのだが、有名な京都の宮津市の籠(
この)神社の奥宮である真名井神社へ行った時にも、参道に地蔵堂があった。これも、結界のお地蔵さ
か?などと勝手に思った

しかし、この地蔵さんの説明板を読むと、全くの見当違いということがわかる。真名井社の参道の
蔵さまは、「波せき地蔵」と言って、大宝の大地震(約1300年前)に大津波が起きて、ここで波が切り
返したというお地蔵さんだったのだ。 (→ ウィキペディア 波せき地蔵堂 

標高40メートルの地らしいが、もともとは大木に寄りかかるように置かれていて、1996年神社が地
堂を建てたようだ。
なんで、お地蔵さまなのだろう。地震や津波で亡くなった人たちの供養で建てられたのだろうが、あの
世とこの世の境界の石仏としての役割もお地蔵さんにはあるようだ。

波せき地蔵堂  京都府宮津市大垣 

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ウィキペディアで、お地蔵さま、つまり、地蔵菩薩を調べると、このように書いてある。

〝地蔵菩薩(地蔵菩薩)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。サンスクリット語ではクシティガルバ
(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])
と言う。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して
「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き
流しを付けた荘厳具)、錫杖。種字は ह (カ、ha)。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人
々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。日本における民間信仰では
道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供え
られている。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。
サイノカミが、たいへん習合度の高い神様で、「境界の神」「悪霊や疫病などを防ぐ神」「縁結びの神」
「子供の神」という多様な役割を持つように、お地蔵さんも「子供の守り神」以外にも多様な役割をもつ
ものと思われる。

西出雲のカンナビ山、仏経山の麓にたくさん見られるお地蔵さまの一つだが、番号が彫ってあり、なん
番号なのか、わからなかったが、「出雲三十三番観音霊場」への道標としての「丁地蔵」であることが
わかった。一丁ごと(約109メートル)に、建てられているから、多いはずだ。
現存する地蔵さまは、18世紀半ば~19世紀の半ばに製作されたもののようだ。


丁地蔵  曽枳能夜(そきのや)神社 島根県出雲市斐川町神氷823番地 
三十四丁と書かれている。

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出雲札所(観音霊場)の起源だが、約一千年前、花山法王(花山天皇)が、出雲の地に観音霊場を開き、
順拝されたのが始まりと伝えられている。
しかし、観音さまなのに、なぜ道標が、地蔵さまなのだろう。
他県の三十三番観音霊場をインターネットで見ると、丁石が観音像の場合も多いからだ。
地蔵さまが「道の仏さま」だからなのかしら。


賽の河原 加賀(かか)の古潜戸 
島根県松江市島根町加賀

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猿田彦大神とされる佐太大神が誕生したとされる加賀の潜戸の「新潜戸」に隣接している、賽の河原の
「旧潜戸」である。中世の仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」と思われるが、幼くして父母より先立った子
どもらがあの世で父母を思って積み石をしている、そこに鬼が来て、その積み石を壊す。そこへ地蔵さ
まが現れて子どもを救うという「賽の河原」である。

「賽の河原」というけれど、山にある場合が多い。加賀の潜戸の場合は、海岸の洞窟である。
洞窟は、黄泉国への入り口という信仰がある。
黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが投げた杖から岐神(クナド)の神が
生まれたという話があるが、あの世とこの世の境界神のサイノカミ(クナドの神も総じてサイノカミと
も呼ばれる)が、地蔵さまに転化したのかなあと思わされる。

『石の宗教』(五来 重 著 講談社学術文庫)という本がある。なぜ地蔵さまにサイノカミが習合す
るに至ったか、様々な理由が書かれていた。私はたいへん納得できた。

〝このような霊魂の往来を塞るための積石の代わりに、石棒を立てることもあって、石棒が男根形(コ
ケシ形)の石棒となり、これが道祖神の起源であることはすでに述べた。男根形の道祖神は明治維新の
「淫祠邪教の禁」で大部分撤去されたので、男神女神抱擁像の道祖神や文字碑だけが残ったに過ぎない。
ところが男根形の道祖神は、顔や袈裟衣を彫刻すれば、そのまま石地蔵になってしまう。石地蔵という
ものは、けっして図像や仏画や木彫の地蔵菩薩を石像化したものではなく、もともと石の宗教性から地
蔵が造形されたものであることを、私は主張するのである。〟
                          
〝そこで原始的な石の造形が、男根、女根であったことは、これが祖先のシンボルだったためである。
それを近代になるにつれて、祖先であることをわすれて、性的な興味をもつようになったので、恥ずか
しいという羞恥心をおこしたり、道徳的価値判断から「淫祠邪教」といったのである。明治維新の宗教
政策の一つに「淫祠邪教の禁」があって、撤去処分された石棒は莫大だったという。いま各地の考古資
料館などで、石棒や石杵として陳列されている完形品には、そのときの撤去物が多いと言われる。
                         (五来 重 著『石の宗教』講談社学術文庫)


# by yuugurekaka | 2017-09-22 21:52 | 塞の神

ラフカディオ・ハーンは、木の根神社の訪問の際、このように述べている。
「これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していた
ものだ。それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。」
              "小泉八雲著・平井呈一訳『日本督見記 下』 恒文社 " 

では、ギリシャはどうだったのだろう。
ネットで調べると、〝ヘルマ〟という古代ギリシャには道の神としての石棒とした造形物がある
ことを知った。以下のヘルマは、ポリュエウクトス が造った古代ギリシャの政治家デモステネス
をかたどったヘルマである。
原始時代ではなく、古代ギリシャの紀元前280年頃のものである。

画像出典 ウィキペディア ヘルマ

〝ヘルマ(ギリシャ語ἕρμα, herma, 複数形:hermai, ヘルマイ)は、石もしくはテラ
ッタ、青銅(ブロンズ)でできた正方形あるいは長方形の柱。柱の上にはヘルメースの胸像
が乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性の生殖器がついている。古代ギ
リシャの神ヘルメースの名はこのヘルマに由来するという説があり、一説には、ヘルメース神
は商人および旅行者の守護者としての役割を担う前は、生殖力・運・街道と境界と関連した、
ファルス(男根)の神であった。( ウィキペディア ヘルマ より)

石柱に写実的な彫刻。それだけでよさそうなのに、なぜ男性の性器を描く?と思うが、この性
器が、この石棒神の本質であったから描かざるを得なかったのだろう。

高群逸枝氏の文章が、頭に浮かんだ。
〝交通の神が性の神でもあるというのは、族外婚段階のヒロバのクナドを考えればわかろう。
クナドは文字通り神前共婚の場所であるが、またそのことによって他群と交通し、結びつくこ
とになる場所でもある。  
原始時代では、性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性
器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でも
あった。
大国主命の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかならない〟
(高群逸枝 『日本婚姻史』至文堂 )

つまりは、ギリシャの「道祖神」ヘルマも、共同体と他の地域の共同体を「結ぶ神」だったの
かなあと思うのである。
それはまた異界なる共同体の接点として、攻めてこないような、悪霊を封じる塞神としての役
割をもつようになったのではないかと思う。

道の神は、性神であり、また交通の神ー交易の神ー商業の神へと変容したのではないか。


# by yuugurekaka | 2017-09-02 22:31 | 塞の神

1)伯耆のサイの神まつり 
まずは、淀江町教育事業団発行「未来にヒントを!! 伯耆のサイの神さん」からの抜粋です。(番号は、私がつけています。)

① 昔は、淀江町や中山町では、竹やむしろで子供がこもる小屋を作られたり、淀江町では小型のサイの神さんを宿に迎えて絵具などで採食し化粧することも行われました。

② 一二月十五日午前0時をすぎるとサイの神さんの前で火がたかれます。サイの神さんは縁結びの神さんで早くまいるほど良い縁があり、遅くなるほど縁遠くなるといわれ暗いうちからきそっておまいりするのです。

男の子はわらづとをせおわせた「わら馬」を、女の子は「わらづと」を持ってまいります。わら馬は尻尾を焼いて供えるか、木につるしたり木の上に投げかけます。

※ 藁苞(わらづと)とは、いわゆる、納豆をくるむ藁でつくった入れ物です。

④「カタ焼き」といって米の粉や小麦粉だんごの中にあんを入れ両面を焼き上げたもの、小豆飯、米なども供えます。中山町岡ではかならず塩けご飯の「くじら飯」が供えられます。

⑤中山町御崎では小屋ごと焼いたり、名和町塚宮神社には大塚と塚根の二体のサイの神さんがあって、お互いにきそいあって火をたきました。また、江府町尾上原では、サイの神さんのご神体はありませんが、村の入り口の祭場で火をたくといわれます。サイの神祭りは火祭りであったと言えるようです。

中山神社のサイノカミさん

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2)サイの神祭り・とんどさん

伯耆町のサイの神まつりの特徴を見て、思ったのは、これは「とんどさん」ではないか?と、思ってしまいました。
でも、出雲地方の「とんどさん」ではなくて、双体道祖神が多い地域で行われる小正月、1月15日に行われる行事のとんどさんです。
「とんどさん」と呼ばれておらず、「サイノカミさん」「道祖神祭り」と呼ばれているようです。

伯耆地方で行われるサイの神祭りは、12月15日ですが、もしや、旧暦の12月15日が、新暦に移って、1月15日に行われるようになったのではないか?などとも想像したりもします。でも伯耆地方では、サイノカミ祭りと別に、とんどさんは1月に行われます。

1月15日の小正月の行事は、南インドでも行われているようです。
「一月十五日の夜…、コダンダラマン教授の親戚の人たち十数人が立ち上がり、小さい子供が先頭に立って『ポンガロー ポンガル』と大声で叫びながら家の周りを廻り始めた。」「タミルでもポンガルの前日(つまり年末)に、大きな箱、着物、莚など古した物を焼く。現在はこの行事をBokiといっている。これは雷の神インドラの名である。年の初めに雨を乞う行事と見られるようになったわけである。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より) 

昨今では、出雲地方では1月15日ではなく、1月7日前後の日曜日に行うところも多いです。大正月を終えるための儀式に変容しているように思えます。しかし、「本来は一月十四日が年末なのでその年の使い古した物を焼く行事だった。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より)なのかもしれません。

しかし、なぜ、馬のしっぽをこがすのだろう。
新潟県のサイの神祭りでは、木でサイノカミさんを造り、いっしょに燃やすところが多いのだそうです。神様を燃やす!?いったいどういう意味があるのだろうと思いましたが、ふと、縄文時代の祭祀のことが思い浮かびました。

3)縄文時代の石棒信仰

縄文時代の遺跡からは、様々な石棒が発見されてもおりますし、日本だけではなく、古代の性器信仰は万国共通のことです。

一口に石棒祭祀と言っても、時代によって変化しているようです。

「中期末以降は、住居の廃絶にともなう儀礼行為の一環として、石棒を火にくべるという祭祀行為が盛んにおこなわれるようになり、それが発展して後期前葉以降に廃屋儀礼が活発化するという、おおまかな変化が指摘されるのである。」(山本暉久『住居跡出土の大型石棒についてーとくに廃屋儀礼とのかかわりにおいてー』,谷口 康浩編『縄文人の石神~大型石棒にみる祭儀行為~』 六一書房 )

神のしるしであった石棒は役目を終えると燃やされ破砕されたのです。
現代のサイの神祭りで、木のサイノ神さんが、燃やされるいう事例から、これももしや、縄文時代の石棒祭祀のことが何か関係がないのかしらと思った次第です。

ある説では、近世から始まったサイノカミ祭りと言われていますが、私には、民衆の間において、古代から脈々と受け継がれたのではなかろうかと思えます。

# by yuugurekaka | 2017-08-25 23:30 | 塞の神

1)出雲地方に少ない 

ウィキペディア道祖神には、「全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。
甲信越地方や関東地方に多く、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野では、文字碑と双体像に大別され、
庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い。」と書かれています。

『雲陽誌』(1717年)を見ると、「荒神」とは別に、「幸神」として記載があります。
たとえば、意宇郡東岩坂の記載を見ると

「荒神三十五
 幸神二ヶ所
 山神二ヶ所 …」と、なっており、荒神さんの圧倒的な数にはおよびません。「幸神」ではなく「道祖神」との記載のある集落もありますがやはり数は少ないです。
                      
同族荒神というように奉祭する集落の単位そのものが、違っていたのかもしれません。

都我利神社の双体道祖神  島根県出雲市東林木町672

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2)近世の双体道祖神の分布状況

さて、下記は「日本の石仏、五七号」(1995)に載っている、長野県の道祖神研究家、若林栄一氏が
調査された全国の双体道祖神の数です。

      調査数     推定数
長野県  2584    2600 
群馬県  2228    2300
神奈川県  320    1300
新潟県   341     400
県   166     300
静岡県   307     300
岐阜県    69      70
愛知県    36      50
富山県    14      30
埼玉県    40      50
東京都    22      30
栃木県    20      30
福島県    10      30
千葉県    10      10
茨城県     1      10 
山形県     1      10 
青森県     1      10
鳥取県   347     360
岡山県     6      10
島根県    78      50


ここの数は、あくまで「双体道祖神」の道祖神塔の数であって、単体道祖神、文字塔、祠、丸石、木など
の形態は入っていません。
この表で見ると、長野県、群馬県が他を圧倒して多く、神奈川県、新潟県、県、静岡県が多く、本州
西部では、鳥取県が、抜きんでて多いようです。
しかし、なぜ、この地域のみに多いのか、原因がよくわかりません。

島根県は、極端に少ないというよりも、上位の県のように多いとは言えないが、かといって少ない地域で
なさそうです。

3)赤屋のサエの神

島根県出雲地方の道祖神は、概ね「境の神」として、主に樹木を神木として、藁馬などを奉祭するようで
す。しかしながら、旧能義郡赤屋村( 上小竹村、下小竹村、赤屋村、下十年畑村、上十年畑村、草野村)
においては、「境の神」というよりは、ほとんど、集落の中にあって、「縁結びの神」のようです。

山陰民俗会発行『山陰民俗』掲載の井塚 忠氏の昭和53年(1978年)の調査ですが、赤屋村だけで、
実に34ヶのサエの神(道祖神が確認されています。祭祀施設が、いわゆる道祖神塔ではなく、神木とし
ています。小宮(幸神社)や立石の彫字は、「才之神」「さえの神」「幸ノ神」と、あります。

『雲陽誌』で、旧赤名村の集落を見てみましたが、「幸神」のことは一切記載がありませんでした。おそ
らく、「荒神」や「幸神」そのものの厳密な把握自体が、困難だったのではないでしょうか。

赤屋のサエの神の祭日は、すべて12月15日としており、鳥取県伯耆地方と同じです。奉納物は、藁馬
で、子どもの数だけ作って奉納するのだそうです。
奉祭集団の単位は、荒神さんのように、多くは二、三十軒、小さくは一軒で、サエの神さんを祀っている
そうです。
赤屋村は、伯耆・出雲の境に位置するので、伯耆地方のサイの神と同じような性格を持っていると思われ
ますが、双体道祖神塔の築造ということに到らなかったようです。

《参考文献》石田 哲也(文)・椎橋 幸夫(写真・調査)著 『道祖神信仰史の研究』 名著出版 
      山陰民俗学会 『山陰民俗叢書6 家の神・村の神』 島根日日新聞社     


# by yuugurekaka | 2017-08-20 22:55 | 塞の神

■ 亀甲神社の道祖神
鳥取県米子市淀江町の「上淀白鳳の丘展示館」の展示物の中に、亀甲神社(かめのこうじんじゃ)の
道祖神の写真がありました。歴代の道祖神の姿の変容が面白く感じました。
神社の場所を職員さんに聞いて、直接見に行きました。
※ 道祖神とは ⇒  ウィキペディア 道祖神

米子市指定有形文化財の標示がありましたー。
〝サイノカミともよばれ、子どもの守り神、縁結びの神様として親しまれている。白亀がこの近くの
海岸に上陸し、「亀甲」の地名の由来になったと伝えられる。〟

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亀甲神社の鳥居の方から、入らないと。


亀甲神社鳥居      米子市淀江町中間642番地

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〝亀甲神社 鎮座地 西伯郡大和村大字中間字海道ノ上
 祭神 須佐之男命
 由緒 創立年月不詳、神木を以て荒神宮と稱す、大神山神社の摂社たり、明治元年神社改正の廢社とな
 りしを、同十二 年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改む。〟
                       (鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』昭和10年より)

これが、9体の道祖神さまか。あれ、数えると、11体あります。


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いわゆる男女の双体道祖神が8体、男根型が1体で9体らしい。
右前のおかめが描かれたものと(アメノウズメか?)、その後ろのタキシードとウェディングドレスを
身に着けたカップルが描かれたものは、平成2年に新たに付け加えられたもののようです。
男根型の左にある線彫りの双体道祖神は、文化13年(1816年)のものだそうです。

ここで多くみられる男女の双体道祖神ですが、鳥取県では、伯耆の西部にしか見ることができないそう
です。東は赤崎町から西は米子市、溝口町、江府町までに348が数えられているそうです。
(伯耆の東部(倉吉市など)はというと、石に一人の男の神像をほった単体の道祖神(サイノカミさん)
がほとんどだそうな。)

伯耆では、江戸時代の中頃から、石に男女の神様を彫って、御神体とすることが流行しました。伯耆で
最も古いものは、米子市尾高の安永5年(1776年)だそうです。

ここの つまり近世の、双体道祖神の歴史が古くないからと言って、道祖神(サイノカミさん)信仰そ
のものが新しいわけではありません。たぶん、もともとあった道祖神信仰が、時代時代によって、性格
が変わり、再編成、拡大再生産されてきたのではないかと私は思うのです。

ちなみに伯耆では、道祖神(サイノカミさん)の役割は、「縁結び」「子供の神」の性格が強いのが特
徴のようです。
一般的に云われる悪霊を封ずる塞の神、境界神としての道祖神とは、江戸時代の伯耆の地域ではまた違
たものだったのでしょう。

《参考文献》  淀江町教育文化事業団 『ザ・淀江 ―伯耆のサイの神さん―』


# by yuugurekaka | 2017-08-15 18:34 | 塞の神

■ 高草郡の式内社

鳥取県の八上郡に訪れた時、湖山池の南西のほとりのホテルに一泊しました。
湖山池は、「池」という名がついていますが、広いし、美しい。小さな島々が遠くに見えますが、
大昔は、海だったのだろうなあと思わせます。

湖山池  鳥取県鳥取市
古代は海の湾であったが砂丘の堆積によって、海と別れた海跡湖。

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この湖山池の西南方面が、「高草郡」でありました。
高草郡の式内社(927年)を記述しますと、①伊和神社、②倭文神社、③天穂日命神社、④天日
名鳥命神社、⑤阿太賀都建御熊命神社、⑥大和佐美命神社、⑦大野見宿祢命神社の7社。

倭文神社を別にしても、祭神名が神社名となっていて、なんとわかりやすい。その倭文神社にして
も祭神とは違うのかもしれないが倭文氏の神社ということは間違えようがない。
だから、たぶん祭神は平安時代より、変更されることなく、今日まで至っていると思います。

ここ高草郡には、天穂日命系統の神社が3社あります。「天日名鳥命」は、天穂日命の御子、「
熊命」は、天日名鳥命」の別名です。
それも、湖山池の西南のほとりに集中しています。湖山池が昔は海だったことを考えると、ここは
太古港で海上交通の要だったのだろうなどと想像します。

単純に考えれば、天穂日命一族が太古ここに住んでいたのだろうと思いますが、島根県東部が、天
穂日命直系の出雲国造家の本拠地と言われているのに、これぞ天穂日命を祀ったと言われる神社が
多くありません。出雲大社の祭神が、素戔嗚命に変わったことや、熊野大社の祭神が素戔嗚命であ
ることを考えると、天穂日命一族そのものは先祖の天穂日命そのものよりも、素戔嗚命を祀った感
じがします。

だから、ここの天穂日命系統の神社も、その直系の氏族というよりも、後継の氏族ではないのかと
思ってしまうのです。

湖山池公園の駐車場に車を停め、天穂日命神社へ行きました。

天穂日命神社拝殿  鳥取県鳥取市福井字宮ノ谷361

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天穂日命神社説明板

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〝ふるさと文化探訪
 天穂日命神社

 古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祭る式内社である。
 古代の因幡に大社は国府町にある宇部神社であるとされているが、格式から見ると9世紀中頃まで
 は、天穂日命神社が宇部神社よりも上位にあった。すなわち、因幡国内における中心的勢力はこの
 高草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。
  なお、天穂日命神社が、元は現在の布勢日吉神社の社地にあったという一説もあり、社地の決定
 には疑問視する向きもある。

 平成四年三月  
                                   鳥取市教育委員会  "
 ※ 下線は私。

この説明板の下線のところにうん?と思ってしまいました。「因幡国内における中心勢力はこの高
草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。」というところです。その前提となる因幡国造氏は、彦多
都彦命を創始とする和邇氏系、また宇部神社の神主家の伊福部氏系だと自分は思い込んでいたので、
どちらの氏族も、大国主命は奉祭するであろうと思いますが、天穂日命が氏神ではないのだろうと
する違和感です。

どうだったかなと改めて調べてみました。
まずは、『先代旧事本紀』。"稲葉国造 成務朝の御世に、彦坐王の子の彦多都彦命を国造"とあり
ます。

この彦多都彦命ですが、父、日子坐王が崇神天皇時、丹波に派遣されたの古事記の記述あり、
丹波道主命=美知能宇斯王は派遣先の丹波で生まれた男子であるから 丹波彦立王であるといい、
丹波道主命=彦立王という説があります。

ちなみに、富家伝承本によれば、"磯城王朝最後の大王の名前が、旧事本紀に表れている。その中
の国造本紀では、大王・彦道宇斯は、「彦多都彦命」と名が変わっていた。かれは稲葉国(のちの
因幡国)に追われて、稲葉国造となった。彦多都彦命の娘・ヒバス姫は、望まれてイクメ大王の后
となった。武内宿祢は彦多都彦命を守るために、イナバ国の宇部(鳥取市)に移り住んでいた。"

高群逸枝著『母系制の研究』(講談社文庫)によれば、"(1)彦多都彦命…(2)伊其和斯
彦命、大己貴命十四代孫武牟口命の子伊布美宿禰の命の児なり…。(3)若子臣(汗麻宿禰の子)
系図に云ふ…、…中略…因幡国造は、彦坐系を外にしても、大国主系、武内宿禰系、尾張系の三系
を内包している。"

また、宇部神社宮司家、伊福部氏は通説では物部氏の一族とされ、「伊福部氏系図」を見ると、「
饒速日命」は出てきますが、「天穂日命」はどこにも見当たりません。

むむむ…これはどういうことなのか、改めて国造を、調べて見ます。
以下 ウィキペディアの抜粋です。

"大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味し、この国の範囲は令制国整備前の行政区分である
ため、はっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。また定員も
1人とは限らず、1つの国に複数の国造がいる場合もあったとされる。"

考えてみるに、国造というのがずっと一つの血統、氏族のみであるという考え方があるが、弥生時
代の末期から大化の改新まで、ずっと同じ氏族と言うのがそもそも不自然です。
複数の国造がいたかも知れないし、また争いで国造の系統が取って代わったこともあるでしょう。

説明板の出典は何かわかりませんが、国造の系譜として、天穂日命系統の一族か、あるいは野見宿
禰の一族ー土師氏の系統もあったのかもしれません。時代時代で、国造の系統が変わっていたこと
もあるのでしょう。

天日名鳥命神社 鳥取県鳥取市大畑字森崎874

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■ 自然の造形  阿太賀都健御熊命神社  

『日本書紀』では、崇神天皇の項では、武日照命(武夷鳥命とも天夷鳥命ともいう)ですが、国譲
りの項では、天穂日命の御子は、大背飯三熊大人(おおそびのみくまのうし)、別名・武三熊之大
人(たけみくまのうし)と書かれています。

阿太賀都健御熊命神社(あたかつたけみくまのみことじんじゃ)は、その「武三熊之大人」を祀っ
ています。「たけみくま」の前に付いている「阿太賀都」(あたかたつ)はなんでしょうか?美称
なのか、『新撰姓氏録』に「和仁古、大国主六世孫 阿太賀須命之後也」というのがありますが、
和邇氏の祖神と天穂日命の御子を同時に奉祭したのかしら?よくわかりません。

よくわからないと言えば、神社の場所がなかなかわかりませんでした。
カーナビをつけていたら、すぐわかったのかどうかわかりませんが、ゴルフ場の近くをぐるぐる彷
徨っておりました。

あっ、道しるべを発見。ここを左折しないといけませんでした。

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地図がありました!

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地図の通りに歩いていきますと、山の小道に鳥居が見えます。

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ついに神社が、見えるところまで来ました。
しかし、急な坂が続いています。右手には、自然石の80段の石段だそうです。

阿太賀都健御熊命神社  鳥取県鳥取市御熊612 

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この自然石の説明書きがありました。

”鳥取市指定文化財
 御熊神社 玄武岩柱状節理  昭和四十九年四月四月指定
 御熊神社社殿一帯にみられる玄武岩は、径約五十センチ、長さ百五十~二百センチの六角状の玄
 武岩で形成されており、その数量及び範囲については確かなところ不明である。社殿への参道階
 段や民家の石垣などにはこれたの玄武岩が多く利用されている。
 玄武岩の産地は市内にもみられるが、そのほとんどが縦型柱状節理のものであって、当御熊神社
 にみられる横型柱状のものは珍しいものである。

「節理」とはなんぞや?
ウィキペディアによれば
「節理(せつり)とは、岩体に発達した規則性のある割れ目のうち、両側にずれの見られないもの
 をいう。マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じる。なお、割れ目の両側にずれが見ら
 れる場合は断層になる。」

そうですか。石になって割れたのではなく、石ができる時割れたのですね。不思議です。

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なんとか神社に到達できました。

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神社の裏山には、玄武岩柱状節理が見れます。自然の造形物とはにわかに思えません。まるで石切
りの工場がどこかにあって、積み上げたように思えます。

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健御熊命神社は昔、柱大明神とも呼ばれ、石を切り出す鉄を鍛えた「鍛冶屋谷」、石の切屑を捨て
た「石屑(こけら)谷」、「細工谷」などの地名が残り、摂社に鍛冶殿社を祀ったのだそうです。

# by yuugurekaka | 2017-06-26 18:30 | 出雲国造

鳥取県の中山神社に向かう国道9号線に「木の根まんじゅう」の大きな看板に出会います。
木の根は、木の根神社の御神体を模した形のようです。
買って食べてみましたが、程よい甘さでおいしかったです。


                       木の根饅頭
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木の根饅頭のお店の北側に「木の根神社」があります。「木の根さん」「への子松」とも云われ、
子宝、縁結びなどにご利益があるとされて、今でも全国から参拝客があるそうです。

木の根神社鳥居  鳥取県西伯郡大山町松河原

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ここの神社の由緒ですが、鳥居横に説明板に書かれていました。

"生まれつき身体が弱く、元気のない松助という若者は、結婚すればすぐお嫁さんに逃げられてし
まいました。
母親は、何とかならぬものかと八幡さんにお参りすると「山の中ほどにある大きな松の根にあやか
りなさい。」とお告げがありました。
そこで、母親は、その松の根を持ち帰り、朝夕一心にお祈りすると、数日たって松助は見違えるほ
ど立派な男になり、後に5人の子供にも恵まれ、長者になったということです。"

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の説明板

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、明治二十四年にセツ夫人と再びこの地を訪れ、紀行文に木
の根神社の事を書いたそうです。
どんなことを書いているのかと思い、本を借りて、読んでみました。
下記は、その本の抜粋です。

上市という、眠ったような小さな村の近くで、名高い神木を見るというので足を止める。神木は、街
道ぎわの小高い丘の森の中にあった。木立をはいると、三方を低い崖に囲まれた、小さな窪地みたいな
ところへひょっこり出た。―崖の上には、樹齢いくばくともしれぬみごとな老松が、亭々と群ら立っ
ている。太い磐根が岩を割って崖の表面に這いだし、さしだす枝と枝が低いそこの窪地に、昼なお暗い
緑陰をおとしている。そのなかの一本が、太い三本の根を妙な形に突き出していて、その根元のところ
に、なにやら祈願の文句を記した紙のお札だの、奉納の海草だのが巻きつけてある。なにか言い伝えに
よるというよりも、その三本の根そのものの形が、民間信仰から、この木を神木に祀り上げた、といっ
たものであるらしい。…中略… いったい、樹木崇拝―もしくは、その樹木に宿っていると考えられ
神の崇拝、これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していた
ものだ。それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。 …後略…"

                   "小泉八雲著・平井呈一訳『日本督見記 下』 恒文社 " 
※下線は私

木の根神社

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樹齢いくばくともしれぬみごとな老松が、亭々と群ら立っている。」とのことだったが、そびえ
立つ大きな松は見当たりません。今は、大きなその根だけが、拝殿の中に納まっているようです。
拝殿の中にまた祠があり、石棒がお供えしてあります。
小泉八雲が描いている太い三本の根がどれなのか、よくわかりませんでした。

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"これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していたものだ。
それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。"
原始共同体時代の信仰として、ホト岩や石棒信仰は世界共通のものであったようですが、"一時、
社法制定のころ淫祠として廃棄をすすめられたこともあるという。" 鳥取県立米子図書館編
『郷土史跡めぐり(西伯耆編)』米子 今井書店発行)事のようです。
江戸時代には、あちこちの神社であったようですが、明治時代の神社再編の中で、廃棄されたり
祠の中で陰をひそめたものと思われます。

この神社の裏の丘に登ってみました。
ん?この石は、磐座なのか、石棒のモニュメントなのかしら。


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それと、このピンクの鳥居は、逆さ鳥居というのでしょうか?


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鳥取県立米子図書館編『郷土史跡めぐり(西伯耆編)』(米子 今井書店発行)によれば、"一方
木根神社の前から南上したところにある香取の「ほととぎす橋」の傍らには「甫登(ほと)神社」
がある。谷あいにある天然の大石が女性を象徴し、ともに原始信仰の姿を伝えている。"と。

しかし、この丘から、逢坂八幡さんの方向に歩いて行くと、甫登(ほと)神社の鳥居が…。

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甫登(ほと)神社

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饅頭屋さんで、聞いたところ、香取の甫登神社を勧請したものらしい。
甫登(ほと)神社の隣には、やきもち神さんが石室の中に、鎮座していました。

この後、香取の甫登神社に参拝しようと思い向いましたが、大山の麓なので雪で通行不能でした。
一月中旬のことです。

# by yuugurekaka | 2017-06-13 21:45 | ラフカディオ・ハーン

■鵜鷺(うさぎ)の地

黄泉の穴の伝承地として有名な「猪目洞窟」をさらに西に行くと、鵜峠(うど)という地域に入り
ます。鵜峠をさらに西に行くと、鷺浦(さぎうら)という地域に到達します。

鵜峠(うど)浦
『出雲国風土記』(733年)には宇太保浜(うたほはま)と記されています。中世に宇道、宇峠とも呼ばれ、江戸時代に
鵜峠になったという。

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鵜峠+鷺浦で明治22年、「鵜鷺村(うさぎむら)」が誕生し、昭和26年(1951年)に大社町と
合併するまで存在しました。

鷺浦については、奈良時代より「鷺浜」なる地名があり、起源の古い地名であると思います。

鷺浦港  向こうに柏島が見える。
『出雲国風土記』(733年)には、すでに鷺浜(さぎはま)と記されている。

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伊奈西波岐神社

ここの鷺浦港に面したお宮が、出雲大社摂社「伊奈西波岐神社」です。式内社「大穴持伊那西波伎
神社」に比定されている神社です。鷺社とも呼ばれています。
祭神は、社名の通り稲背脛命(いなせはぎのみこと)です。

この神ですが、日本書紀の「国譲り神話」の所で出てまいります。

 "このときその子の事代ことしろ主神ぬしのかみは、出雲の美保みほの崎にいって、釣りをたのしんでおられた。
 あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。そこで、熊野の諸手船もろたふね(多くの手で漕ぐ早船か)
 に、稲背いなせはぎ諾否いなせを問う足)をのせてやった。そして高皇産霊尊の仰せを事代ことしろ主神ぬしのかみに伝
 え、その返事を尋ねた。" 
        ( 『日本書紀(上)』全現代語訳 宇治谷 猛 講談社学術文庫 )
 
古事記では稲背脛命ではなく「アメノトリフネ」が登場します。稲背脛命は、天穂日命の御子「
夷鳥命(あめのひなとりのみこと)」と、同神とされていますが、日本書紀では、同段に、大背おおそ
びのみ熊之くまの大人うし(またの名は武三たけみ熊之くまの大人うし)と書かれており、ここがそのように書いてないところを
見ると
武三たけみ熊之くまの大人うし=稲背脛命とは読み取れないように思えるのです。ともかく国譲りを承諾する
かどう
かを問う使者という役割を与えられた神には間違いがありません。

ここの
大穴持伊那西波伎
神社が、鷺社に呼ばれるにいたった背景がなんだったのでしょう。
鷺浦に鎮座しているというこ
ことなのでしょうが、天日名鳥⇒鷺ということからも、きているんで
しょうか?
古事記では、鷺(さぎ)は
天若日子の葬儀のときの、箒持ちの役割を担います。この箒は、「伯耆
耆」の由来とも
云われ、(伯耆風土記逸文では、「母来」となっています。)伯耆国造は、天穂日
命の系統ということになっているので、そういうこと
が関係しているのかしら

昭和41年御由緒調査書によれば「往古佐木といへる社号は延喜式神名帳に伊奈西波伎神社とあるを
以って神号を蒙り波伎と言ふべきを「は」と「さ」を通音を以て佐木と万葉書に記し来り一浦の名
も此社号より佐木浦といへり神号を象り(かたどり)社号とする例多し
…中略…防州岩国の住人某
奇想に出雲国佐木大明神と称し玉ひて疱瘡安全を守護し給ふとの託
宣有て夢覚ぬ翌朝家内へ白鷺一
羽翔入りて暫時有て飛去方を見れば出雲国の空に当れり誠に奇異の思いをなして速かに大社へ詣り
来り件の瑞夢を語りしより鷺の文字に改め書すと。」

ここに書かれているのは、「
伊奈西波伎社
」⇒「
波伎社」⇒「佐木社」⇒「鷺社」という転訛のよ

うです。

伊奈西波岐神社  
祭神稲背脛命   所在地 出雲市大社町鷺浦102  


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ところが、江戸時代の地誌、黒沢石斎著『懐橘談』(前編1653,後編1661)の「鷺の宮」の段では、
鷺社の祭神が、「素戔嗚命の妾」となっています。国譲りの段の登場する神とは、まったく縁の無
いものなっています。

"出雲国鷺宮は何れの神を祀り侍るやと牧童に尋ね侍れば是れは素盞鳴命の妾にてましましけるが天成
の霊質にて御契浅からざりしが後に天瘡を患ひ給ひ花の顔、忽に変じて悪女とならせ給ひ素戔嗚命と御
中もはやかれかれにならせ給ふ
かくて妾女我身の色衰へたる事を悲み、天神地祇に深く誓ひ給ひて末世の人民我に祈る事あらば疱瘡の
患を免れしめんと誓約し給ひし故に今に至る迄此の宮の石を取りて子児の守り袋に入れてかけぬれば痘
疹の病を脱ぐといひ伝へたりとぞ
年老ひたる社司の語りしは是は瓊瓊杵尊なり伝記にいふ所は昔神託童而祈我者免瘡之患爾来為痘瘡守
護神云々殊勝にぞ覚へ侍る」と"

「素戔嗚命の妾」とはいったいだれなのか?
弥生時代は対偶婚であって、そもそも「妾」なる概念そのものが無いはずですが、ともかく、疱瘡
を患って素戔嗚命と不仲になってしまいます。そこから、
稲背脛命=疱瘡に罹った
「素戔嗚命の妾」、
あるいは瓊瓊杵尊、というように別の伝承が組み合わさったような感じがします。

伯耆・南部町の鷺神社が、祭神 稲背脛命 磐長姫命としているところを見ると、瓊瓊杵尊と磐長姫
命が関係しているのかと思いましたが、そこは、元々別の神社の祭神で合祀されたもののようで違う
ようです。

ここの伊奈西波岐神社は、江戸時代、鷺大明神として全国的に有名だったようで、日向佐土原の修験
野田泉光院の『日本九峰修行日記』に"これ疱瘡の守護神日本第一也と云ふ"と書かれています。
ここの神社の石が「ご利益」があったということなのですが、宗教上の理由以外にも何か理由がある
のではと、ここの石の意味を考えてみました。
鷺浦には昭和10年代初頭に閉山するまで銅山があったようです。
銅は殺菌作用のある鉱物らしい。⇒一般社団法人 日本銅センター
それが関係したかどうかわかりません。

伊奈西波岐神社の灯籠の波乗り兎
鵜峠の大宮神社本殿にも波乗り兎の彫刻が施されています。

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■「素戔嗚命の妾」は、だれか?

伊奈西波岐神社から出雲大社までの山道を車で運転していると、突然道路下に大社造の神社が現れ
てびっくりします。大穴持御子神社、通称三歳社(みとせのやしろ)です。
富家伝承本によると、大和の葛城御歳神社が出雲に里帰りしたものという。

高比売神(高照姫命)、事代主命の兄妹は、出雲の神であると同時に、大和(葛城)の神でもあり
ます。

大穴持御子神社( 三歳神社 )   島根県出雲市大社町杵築東 
祭神 事代主神 高比売神 御年神

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長野県諏訪市大和に先宮神社(さきのみやじんじゃ)というこの高照姫命(高光姫命)を祀った神
社があります。古くは「鷺宮」さぎのみや、「鵲宮」さきのみやと呼ばれたようです。そして、こ
この祭神「光姫命」は、またの名を「稲背脛命」とされているとのことです。

社伝の一説によれば、高光姫命を首領に頂く大和の原住民は、建御名方神が諏訪に攻め入った時、
抵抗したがついには服従して、現在の社地から出ることを許されず、現在も境内前の小川に橋を架
けられていないそうです。
しかし、富家伝承によれば、高照姫命は、建御名方神のおばとなっています。

それはともかく、素戔嗚命は、富家伝承本によると彦火明命(=饒速日命)と同神であり、高光姫
命と結婚して丹波の海部王朝をつくり、その後、市杵島姫命と婚姻して、筑紫王朝をつくるという
ことになっています。海部氏勘注系図、先代旧事本紀でも、下記の系図となっております。
稲背脛命=素戔嗚命妾説ですが、高照姫命離縁説の伝承が背景にあるのかななどと思ったりもしま
す。

鳶大明神の本源地は、出雲の伊奈西波岐神社であると思いますが、白兎神と習合するにいたったこ
とは、その名の「さぎ」にあるのかもしれませんし、「皮が剥げる」といった疱瘡と素兎との共通
項からなったのかもしれません。ただ、太古からそうだったとは、自分には思えないのです。

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参考文献   
杉谷 正吉著『伊奈西波岐神社(鷺大明神)疱瘡守護神由来記』
                  (大社史話会発行『大社の史話第23号』)
       石破 洋著『イナバノシロウサギ総合研究』(牧野出版)
       宇佐 公康著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社
        斎木 雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話』 (おおもと新書)
       勝 友彦著『山陰の名所旧跡―地元伝承をたずねて』(大元出版)

# by yuugurekaka | 2017-06-03 16:16 | 因幡の素兎

国学者 本居宣長は、古事記伝(1798)神代八之巻【稲羽ノ素菟の段】にて「鷺大明神」(さ

ぎだいみょうじん)について述べています。


伯耆ノ国人の云く、本国八橋郡束積(ツカツミ)村に、鷺(サギ)大明神と云あり。須佐之男ノ命を
祭ると云。同村に大森大明神と云あり。大穴持命を祭ると云。件の両社の神主細谷(ホソヤ)大和と云。
さてその鷺大明神を疱瘡(モガサ)の守護神なりと云て、そのわたりの諸人あふぎ尊みて、小児の疱瘡
の軽からむことを祈る。(中略)此れ因幡の気多の前とあるには合ハざれども、若シは菟神は此の社に
て、鷺とは、菟を誤りたるならむか。疱瘡を祈るも、此の段の故事に縁あることなり。(後略)
※下線は私。 
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店)

伯耆の束積の鷺大明神は、現 束積の中山神社の境内地の摂社としてあるわけですが、須佐之男ノ
命を祭ると云い、疱瘡の守護神なのだそうです。そして、この「鷺大明神」を、「菟(うさぎ)を
誤ったのではないか?」と書いているのです。「うさぎ」⇒「さぎ」へとの転訛というわけです。

転訛というので、自分がふと浮かんだのが、ここ
束積
に建てられた「素菟神社」ですが、
須佐之男
が祭られる「
素鵞(すが)神社
」の文字です。須賀神社とも書かれます。
誤ったという可能性のひとつとして思い浮かんだだけです。

しかし、鷺大明神を祭っているから、白兎神伝承の地であるというようには、本居宣長は書いては
いません。私は、
元々は
白兎神伝承と
鷺大明神は別物だと思います。

そもそも、
この
疱瘡(ほうそう)=天然痘の概念が、弥生時代には存在せず、日本に伝染していた
ことが後代のこととされています。⇒ ウィキぺディア 天然痘

ウィキぺディアからの引用です。
〝日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発に
なった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られた
 と考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が
送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来
 の神をないがしろにした神
罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。
 『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)
かるるが如し」とあり、
 瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録
と考えられる(麻疹などの説もある)。585年
 の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。〟

鳥取県・伯耆地方には、
束積以外も、鷺の神を祭る神社があります。
 
鷺神社  鳥取県西伯郡南部町倭3番 賀茂神社境内社

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南部町の賀茂神社境内社 鷺神社ですが、『鳥取県神社誌』(昭和10年)によれば、
もと雲伯の

国境渡太ノ峠と称する所に鎮座し古来疱瘡神として信仰厚く旧藩主池田氏の祈願所なりしと云いま
す。 ※
雲伯は、出雲国と伯耆国。

賀茂神社 本殿の「波乗り兎」  
鳥取県西伯郡南部町倭3番 

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南部町の賀茂神社本殿には、波乗り兎が彫られています。境内社鷺神社との関係なのか、あるいは
関係なく白兎神伝承地なのか、定かではありません。

鳥取県・因幡の国にはないのか調べて見ますと、高草郡に
天日名鳥命神社 という式内社があり、「
天鷺の宮」と呼ばれているらしい。
天日名鳥命は、天穂日命の御子で、日本書紀での
稲背脛命と同
神とされています。
ただ、ここの
鷺(サギ)は、
天三祇宮(アマサギノミヤ)=
天日名鳥命、天穂日命、天日鷲命の三神
を祭ることから由来するという説もあるらしい。

天日名鳥命神社  鳥取県鳥取市大畑字森崎874

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天日名鳥命神社 拝殿


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賀茂神社のように白兎に関係する彫り物がないか見てみましたが、何もありませんでした。

さて、本居宣長は、古事記伝
神代八之巻で、鷺大明神が白兎神に関係がないのか考察しながらも、
最後の追加考察で、そのことを否定する現・松江市の神魂神社神主から聞いた話を載せて
います。

"おひつぎの考

 菟神。出雲ノ国意宇ノ郡大庭神魂ノ社ノ神主秋上ノ得國云ク、素菟神は、今も因幡ノ國高草郡の海
 邊内海村に、白兎ノ社とてあり。今は高草ノ郡なれども、氣多ノ郡に並ビて、氣多の崎の内なり。か
 の伯なる鷺大明神と云は、出雲ノ大社にも同ジ名の社有て、疱瘡を祈る神なり。菟神は其れには非
 ず、といへりき。"        ※下線は私。                
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店

神魂神社神主秋上氏が云うところの出雲大社の社とは、
大穴持伊那西波岐神社(
出雲市大社町
鷺浦)
のことで、現在も
鷺大明神とも呼ばれています。
「菟神は其れに非ず」ということですけれど、稲背脛命が主祭神ですが、白兎神も
配祀されています。
うーん。
しかし、おそらく、さぎ⇒うさぎか、うさぎ⇒さぎのどちらかわかりませんが、長い歳月を
かけて、
習合したんではないのかなあと思います。

出雲地方にも鷺神社があるかと思い出しますと、そんなに見かけません。近代医学の発展で、
「疱
瘡の守護神」がいまや必要なくなったためか、元々少ないのかわかりませんが、松江市の忌部神社
の境内
社にありました。

忌部神社境内社 鷺神社   
島根県松江市東忌部町957


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# by yuugurekaka | 2017-05-29 07:00 | 因幡の素兎

『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)で、白兎神社はどう書かれているかと云いますと、
以下のよう書かれています。

祭神 白兎神、豊玉姫命、保食神
由緒 大兎大明神又は兎の宮とも称す、其の創立年月は詳らかならずと雖も、祭神白兎神は、古事記
に「此稲羽之素莵者也於今者謂莵神也」と記し頗る著名なり、其の神代より縁故深き此の地に社殿を
創立し奉斎せる處にして、今も尚當時の淤岐島、水門、気多前、高尾山、戀坂、身千山、伏野等の遺
近隣に現存し頗る歴史に富む古社たり、往古兵燹に罹り社殿焼失し、境内亦頗る荒廃せしが、慶長
中氣多郡鹿野城主亀井武蔵守茲矩社殿を再興し、社領二十石二斗を寄進す、池田氏國主となるに及
びて亦尊崇篤く社領を寄付す、降りて、明治元年保食神を合祀し、同四年村社に列格せらる。大正元
年十二月二十六日末恒村大字内海字杖突下神ヶ岩鎮座無格社川下神社(祭神豊玉姫命)を合祀す、川下
神社は古來氣多ヶ前なる神ヶ岩に鎮座せられたりしが、白兎神社と等しく兵燹に逢ひ、寶暦十四年七
月三日再興したるものなり、尚当社は古來疱瘡麻疹傷痍縁結び等に霊験著しきを以て著名なり。

※下線は私。


『古事記』になった舞台は、ここなんだという書き方です。

しかし、内海の白兎神社が、古事記の伝承地として半ば定説となったのはいつのことなのでしょう。
また、白兎神が、「縁結びの神」に加えて、「疱瘡麻疹」の神になったのはいつのことなのでしょ
う。


参道脇のうさぎ
白兎に道案内されて、白兎神社に着くという感じである。

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砂で作られた八上姫・大国主命と白兎神

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勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』(大元出版)の「白兎神社と大黒歌碑」を
見ていて、ちょっと驚きました。大元出版なので、富家伝承なのかもしれませんが、私は斎木雲州
氏が書かれたものだけを『富家伝承』として記述しています。

白兎神社拝殿


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〝物部イクメ王の東征の際、出雲を攻略した菟上王は、因幡国西部の伏野にしばらく滞在した。菟上
王は豊王国・宇佐家の御子だったから、宇佐のウサギ神(月神)を信仰していた。
 月の中にウサギがいるので、「月読みの神」をウサギ神とも称した。ウサギ神宮の「ギ」を省略し
た言葉が、ウサ神宮の名前になったと言う、だから、宇佐王家の人は、名前に「菟」の字を付ける仕
来りがあった、菟はウサギの意味に使い、ウと発音した。菟上王の名が一例である。〟

 〝ヤマトのワニ王家・彦イマス王の御子・日子立彦はその頃、稲葉国(後で字が変わった)方面に
勢力を養っていた。かれは菟上王軍に降伏し、菟上王軍に降伏し、菟上王に協力することになった。〟 

〝豊王国軍の一部は占領軍として、稲葉国の伏野に残り、そこに宇佐社を建てた。祭神はウサギ神(
月神)と豊玉姫命である。〟
              (勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』大元出版 )
  

白兎神社本殿

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鳥取県の日本海沿岸に菟佐族、和邇族が分布し、敵であったり、味方になったり、長い歴史でいろ
いろな局面があったのだろうと思います。
九州豊国の宇佐神宮の創始にも、出雲族の末裔「大神比義(おおがの ひき)」が関係しており、
んだかよくわからない複雑な様相です。

# by yuugurekaka | 2017-05-21 08:00 | 因幡の素兎